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門下録

四十.

 新たな動きは二年ほど前からである。
 かつては深山道場で養われていた飯原派に恨みを持つ子供たちが成熟し、家士として家中を動き回るようになった。最初の内は若輩者の悪戯のようなものだと、兼臣は深追いせずに放っておいた。しかし、年を経て御役の中軸に入り込んでくると厄介なものになり、御役目といいながら御家の記録に手を出す彼らが目障りになってきた。
『北見派の一部の人間は、隠密方が上様の密命を受けていたことに気づき始めていた。それ故に、記録を探し始めたのだ』
 怪しい動きをしている者はまだ良かった。無論、褒められたものではないが、目につく分だけ監視がしやすい。厄介なのは人知れずにそうした行動を取る者たちである。
 時には組織立った動きをする彼らに対して、誰か頭が居ると考えた兼臣は、小山近衛を中家老から退かせ、隠密方を遣って探りを入れるように命じた。正確に隠密方が小山の配下となったのはこの時からである。既に鬼籍に入っていた佐久間万学に代わって新沼が小山の指示を受け、半重や山口に伝える役目を担った。
 隠密方はすぐに深山道場に出入りしていた人間たちを監視し始めたが、なかなか尻尾がつかめなかった。そして一年が経過した頃に、一人の人物が浮かび上がってきたのである。その人物とは、高橋久右衛門であった。
『古い話になるが、剣の腕に際して、御家の三傑と呼ばれた者たちが居た。
 佐久間万学に、五村真一郎。そして、寺脇新兵衛』
 誠四郎のよく知る人物の名が二つも同時に上がり驚かずにはいられなかったが、文楽はその反応を見ようともせずに、淡々と話を続けた。
『新兵衛殿は深山道場の師範代だった。他の二人については、聞くまでもなかろう』
 三人は腕を競い合う仲で、共に認め合った仲間でもあった。
『残念な話だろうが、万学殿がお前の御父上を斬ったことに間違いはない。背景に何があったかは、もう耳にしているな』
『父が、北見派に転ずるのを恐れたからだと』
『その通りだ』
 真一郎が死んだ時、最も青ざめたのは新兵衛だった。
 新兵衛も真一郎と同じく、北見派の人間ではなかったが、深山道場に属する以上は真一郎よりも北見派に近い立場にあった。幸い新兵衛には真一郎のような土地はなかったため、飯原派に狙われるような危険はなかったと言えたが、御家三傑の一角である。剣の腕が達者であれ、人一倍気が小さくて臆病な新兵衛にとって、自分を万学のように人殺しの道具に遣われるのは、如何ともしがたいお苦痛であった。
 新兵衛はすぐさま万学と内通した。真一郎に続いて新兵衛まで手にかけたくないと考えていた万学は、密かに手を打つことにした。寺脇新兵衛を殺す振りをして、記録的に抹殺したのである。
『新兵衛は別人として生きる道を選んだ。新たな名を名乗り、また己の長身を隠すようにして背を丸め、人目を嫌って飯原派が与えた屋敷に閉じこもった。
 もう分かるだろう?』
 背の丸い長身の男と言われれば、一人しか知らない。屋敷に閉じこもっていたのも、誠四郎はよく知っている。
『……高橋久右衛門殿か?』
 そうだ、と文楽は言った。
 久右衛門はそうして平穏を手に入れたわけだが、それも長くは続かなかった。どんなに背格好をごまかして人目を忍んでも、かつての道場仲間の視線はかわせなかったのである。結局、事が明るみに出る前に新兵衛改め久右エ門は御家を離れ、放蕩の旅へと出た。それが、飯原派と北見派の争いが最も激化していたころの話である。
 その久右衛門が御家に戻ってきたという情報が、小山近衛の耳に入った。
『久右衛門殿が戻られた?』
『うむ。だが、お前とは会っていない』
 隠密方も、噂に聞くばかりで実際に探し出すことができなかった。隠密方としてまともに働いていた新沼藤次、倉橋半重、山口孝介の三人の内で、久右衛門と面識があるのは新沼だけであったという実情もあったし、出奔から数年の歳月を経ていることもあり、見つけるのはあまりに難しかった。
 ただそうであっても、火のないところに煙は立たない。また、久右衛門はもともと深山道場の人間である。小山近衛は警戒を続け、家中で身を潜められそうな場所はしらみ潰すように指示をした。
 そしてさらに一年を費やす周到な探索の結果、ついに久右衛門の居場所をつかんだ。
 久右衛門が身を潜めていたのは、参天院だった。
『倉橋が殺された日は、』
 文楽が一息置いて言った。
『まさに久右衛門殿を訪ねに行った日だった』
 参天院で半重が見たものは、予想に反するものであった。そこに居たのは、衰弱して立つこともままならなくなった久右衛門だったのである。久右衛門は身をひそめていたのではなく、幽閉されていたのだった。
 これはどうしたことだと、半重が久右衛門に尋ねた。
 久右エ門は罠にはめられたと答えた。決して戻らないと誓った出奔であったが、我が子の安否を晒されて戻らずにはいられなくなったのだと、言った。
『久右衛門殿に?ご子息が?』
『……そうか。お前は聞かされているはずもないな。
 久右衛門殿、いや、寺脇新兵衛には娘がいた。しかし、身を改めた男が連れて歩くこともできず、万学殿に預けたのだ』
 誠四郎の勘はすぐに働いた。
『では、その、娘というのは……』
『紗世だ』
 しかし、紗世は新兵衛を介して道場に由縁があり、北見派の面々に知られた顔であった。北見派は表だって周りを付け回すことはしなかったが、それとなく監視されていた。その網に、久右衛門は自ら飛び込む形となった。
 北見派の残党と接触した久右衛門は彼らを説得しようとしたようだが、聞く耳を持ってもらえずに捕らわれの身となった。殺されなかったのは、ある意味で半重のおかげだった。
 北見派の人間にとって最も脅威なのは、半重の剣である。老いた新沼や気の狂った山口の相手は誰かしらが務まるが、半重だけは別格であった。半重の隙を狙うならば妻女に当たる紗世を利用する策があるが、隠密方が紗世の身の周りを固めている手前、うかつに手が出せない。
 そこへ、久右エ門という札が手に入った。紗世の父親である久右エ門は、言うまでもなく半重の義父である。生かしておけば必ず役に立つ。
『つまり、参天院に久右衛門がいるという情報は、半重を殺し、隠密方に追われる形勢を逆転するための罠だったのだ』
 参天院に乗り込んだ半重は北見派の面々に囲まれた。
 そのまま逃げだすこともできたが、目の前には瀕死の義父がいる。半重には紗世の夫として、どんな形であっても妻と義父を引き合わせる責任があった。
 半重は久右衛門を背負い気味に下がりながら戦った。だが逃げ切れるわけはなく、中条まで下りてきたところで力尽きた。久右衛門も、新沼が駆け付けた時は息をしていたが、ほどなく逝った。
 半重を欠いたことで形勢が逆転したことを悟った新沼は、非常の事態に備えて久右衛門の亡骸と、半重が斬った北見派の死体の中から小山近衛の体格に近いもの選び、を蔵に運び込んだ。
『その後は、お前の知るとおりだ』
 文楽はそこまで話すと黙った。

続く