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門下録

四十一.

 誠四郎はおとなしく聞いていたが、どうも腑に落ちないことがあった。
『……貴方は、先ほどからまるで見てきたように物事をおっしゃる。
 何故そこまで知っておられるのです?』
『……見ていたからだ。
 皆が最期の息をする瞬間を』
『何と……』
『誤解してくれるな、誠四郎。
 決して高みの見物目当てだったのではない。それが俺の御役だったのだ。
 時には闇そのものになって、事の顛末を記録し上様に伝える責務があった。たとえ目の前で身内が殺されようともだ』
『……半重が、倉橋が死んだ時もですか?』
『そうだ』
『参天院へ殺されに行くのを、黙ってみていたということですか?』
『それは違う。北見派の首が誰であるかは、わからなかった。久右衛門が捕らわれていることもだ』
『知っていれば止めたと?』
『……』
 文楽は黙った。
 誠四郎はその背中を見て、事がどう転んでいたとしてもこの男は傍観者にすぎぬのだ、と悟った。
『すまぬ』
『なぜ、捨て置いたのです?』
『命(めい)だったのだ』
 文楽からの知らせを聞いた兼臣が、手を出さないようにと命を下した。
 小山近衛を隠密方もろともに亡き者にすれば、真の意味で平和が訪れる。隠密方だってただでは終わるまい。どちらかが果てた後で、もう片方を始末すればよい。それが兼臣の考えだった。それ故に半重を亡き者にしてこう着状態にあった関係を壊し、事態の進展を図った。
 藩主にとって、家士の生き死にすら策の一部ということなのだろう。
 誠四郎は、ふと加藤の言葉を思い出した。
  俺らは知らぬ間に時の権力者に、つまりは藩に殺されていくのだ――
 その加藤は、おそらく目の前に座っている男に殺された。ということはあの住職も、もはやこの世にはいまい。
『なぜ、私を生かすのです?』
 一人だけ生きていることが不思議になり、愚直に聞いた。
『お前はどちらの人間でもない。上様にとってはどちらでもよい存在だ』
『だったら、あの火事場に私を捨て置くこともできたはず。
 私を救出することは上様の命ではないのでしょう。
 まさしく手を焼いてまで、私を助けた目的は何ですか?』
『……古い約束だ』
『どなたとの?』
『……言えぬ。
 しかし、誠四郎』
 文楽が誠四郎の名を呼んだ。
『お前には感謝している。お前のおかげで、事が済んだのだ』
『……』
『そう言われても、不愉快だろうな。それも仕方あるまい。
 ただ、これだけは受け取ってくれ』
 そう言うと文楽は懐から一冊の書物を取り出した。見間違うはずのない、門下録がそこに置かれた。
『どこでこれを?』
『……目付方には必要がなくなった。これは機密文書でも何でもない。万学殿が上様の命で偽造した隠密方の記録にすぎず、結局は、ごく普通の門下生の記録だ。
 持つべき者に返すのが筋だろう?』
『しかし、これは道場の財産。私が持つべき物では……』
『いや、お前にしか持てない。それが万学殿の願いでもある』
『……?』
 戸惑う誠四郎に対し、文楽は声を張った。
『五村誠四郎。お前は隠密方の選定から漏れたのではない。すでに道場を委ねられる腕があったお前を、あえて外したのだ。
 万学殿は認めていた。“一閃”を名乗るに値するのはお前しかいない、と』
 文楽が足を放って庭に下りた。
『お前に染みついた八十岡流の腕は、お前にしか口伝できない。皆の分まで後生大事にしろ』
 文楽の顔がゆっくりとこちらを振り返った。
『達者でな』
 半面だけであったが、忘れることのできないギョロリとした目がそこにあった。その瞬間に加藤が死に際に残した言葉を理解した。言葉通り、油断していたのだ。源祐という男に。そして、源祐を見たのはそれが最後になった。その時ばかりは、年相応の面相に見えた。
 その後、誠四郎の体は順調に回復して、すこしずつ自由を取り戻していった。一人で立ち座りができるようになるまでは苦労したが、定期的に誠四郎を訪れて世話をしてくれる者がいた。それは、あの火事で死んだと思っていた泉命寺の住職であった。
 文楽が屋敷を出て行ったその日の内に誠四郎を訪れた住職は、幽霊を見たような顔をした誠四郎に言った。
『死んだ、と思っておられたかな?』
『……正直、そう思いました』
『はは。察しが悪いですぞ、五村殿。
 お主の傷を治す者は、このわしを除いてはそうおらん。
 もっとも、深手がなかったのは不幸中の幸いでしたがの』
 施術が短く済んでよかった、老いぼれの指はあまり力が入らない、と住職は笑った。
『ご住職も、よく逃げ延びてくださった』
 誠四郎は住職にそう感慨を述べながら、加藤を斬ったのが誰だったのかを訪ねようと思ったが、すぐにやめた。住職か、文楽か、どちらかが手を下したことは間違いないが、知ったことで何をするわけではなかったし、これ以上探りを入れたくはなかった。一言に、もうたくさんだった。
 燃えた寺を案じて誠四郎がこの後のことを住職に聞くと、当面は蓮南寺で生活すると答えた。同宗であるから蓮南寺に身を置くことは自然である。
 そうして、誠四郎は住職の介抱により順調に回復した。
 今日になってようやく屋敷から外出できるようになった誠四郎は、蓮南寺の前に泉命寺に向かった。庫裏も本堂も焼け落ちてしまっただろうが、墓地はあるはずである。床に伏している間に葬儀が済まされた元や多恵に手向けなければならない。
(薄情だな、俺は。
 知人の葬儀に、ことごとく出られなかった)
 そんな思いとともに訪れた泉命寺は、やはりただの霊園になっていた。
 誠四郎はまず、焦げた千手観音に一礼をし、佐久間家の墓に向かった。葬儀が済んだことを明かすようにして、御供え物が並んでいる。多恵が愛した団子もそこにあったが、今日のは冷たかった。
 新沼はもうこの世にいないのだから仕方があるまいと、その時は気にかけなかったのだが、よく考えれば団子を備えていたのは住職である。蓮南寺を訪れた時に、あの住職の姿が見えず、坊主たちがそろって『そんな人は知らない』と首を振った時には、嫌な予感がした。
(いや。きっとどこかで生きているさ)
 文楽の言葉通りに抹殺されている可能性が高かったが、誠四郎は自身にそう言い聞かせながら蓮南寺の墓地を進み、今、倉橋半重の墓の前に座っている。
 目の前で、自分で灯した線香が揺ら揺らとした煙を吐いている。
「仇は討った」
 もう一度言ってみると、その言葉はむなしかった。
 仇を討ちたかったわけではないのだ。すべては、何があったのかを知ろうとしただけだった。それがこんなにも多くの人を巻き込み、あるいは多くに巻き込まれ、命ばかりが犠牲になってしまった気がしてならない。踏み入れなければ、何事もなく済んだのかもしれないとそんな気もした。
 しかし、知るべきではなかったのかといえば、そうではない。ほとんどが誠四郎が知らなければならないことだった。
 最期に文楽の去り際に聞き出した話によると、半重は死に際に、この件を誠四郎に伝えてくれ、と云ったらしい。
 半重は誠四郎の過去につながる秘密を知っていた。それを知らせずにこの世を去るのは、心残りだったのだろう。
「半重。お前に感謝しなければならぬ。
 お前がいなければ、俺は何も知らないままだった」
 誠四郎は感謝の思いに溢れながら、文楽の語った半重の最期を思い浮かべた。
『この件を、誠四郎に、五村誠四郎につたえてくれ。
 あいつが、知らなければならない。
 それともう一つ。
 紗世を、頼む、と。
 覚悟はできている。
 もしもの時には、五村を頼れと、言い聞かせてきた。
 ……だが、いざこうなると、なにか、癪だな――』
 最期の最後に言った一言を思い出し、誠四郎は涙を浮かべて苦笑した。
「……馬鹿野郎」
 今日ばかりは、いつも雪に消される線香の火が誠四郎の吐息で消えて、後に香りを残した。

終わり