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リルジャの足枷

VI.王女と老人(1)

「リーニス様」
 扉の向こうで老人の声がする。
 浅い眠りの中にいたリーニスはベッドで二度三度寝返りをうった後、目をこすりながら起き上がった。陽はすでに高くなっているが、やけに体が重たく感じるのはここ最近に始まった事ではない。
「リーニス様。よろしいですかな」
「いいわ。入って」
 扉が埃を巻きあげて動き、できた隙間から光の帯が差し込むと、部屋はあっという間に昼前の熱い日差しで満たされた。
 黄色く染めた麻布に赤い刺繍をあてがったケープを寝巻の上に羽織って、リーニスは立ち上がる。老人は目のやり場を探しながら入ってきた。
「何の用?」
「文です」
「文?」
 リーニスの顔が曇った。
 アインガストは広い街だが、文を出すような習慣はあまりない。あるとしたら体を悪くした人間が身内に宛てるか、若者が恋をつづるかのどちらかである。いずれもアインガストに身をひそめるようにして暮らしているリーニスには当てはまらないものだ。となると、街の外からはるばる送られてきたとしか考えられなかった。
(フィオメインね)
 自分の姓でもあるが、考えただけでうんざりした。光に満たされた部屋がみるみると影っていくような気分でさえある。
「ええ、御国からの……」
「やめて」
 老人の言葉を退けて、文を取るとその場で破り捨てた。
「……申し訳ございません」
「いいわ。気にしないで」
 散り散りになった文を拾おうとする老人を制して、リーニスは紙くずを拾い集め、丸めて籠に放った。
「しかし、宜しいのですか?」
「私は捨てられた身です。国の名を背負おうと、もう関わりはありません。
 今さら国が私に文を宛てようと、読むつもりはありません」
 リーニスがそう言い切ると、老人は白い髭を揺らして頷いた。
「そうでしたな。これは失礼をいたしました」
「いいわ。気にしないでと言ったでしょう」
「……時に、リーニス様。
 たまには外に出られてはいかがですかな。今日は風が弱く、幾分かは過ごしやすい日じゃ」
「そうね……。
 ただ、昼過ぎには雨になるわよ」
「雨?」
 老人はすぐに身をよじって扉の外を見たが、廊下越しの空は快晴である。
「いやいや、確かに今はまだ乾季の終わりに近い時期ですが、今日は雲一つ見当たりませんぞ」
「今はね。でも降るわ。
 私のカードがそう告げている」
 リーニスの視線の先にある花瓶一つがようやく乗るほどの小さな円卓に、五枚のタロットカードが並んでいる。老人はそれぞれのカードの意味を知らないが、リーニスの占いが外れないことは知っていた。
「……左様ですか。
 では、干し物をしまうように、皆に伝えて回りましょうかな」
「それがいいわ。それと、貯水槽の蓋を開けておいて。今からでも、今日ならそれほど蒸発しないでしょう」
「かしこまりました」
「雨が上がったら、外に出ましょう」
 リーニスは扉を閉める時に、ありがとうと言って、外出を薦めた老人の心遣いに応えた。
 老人は名をミアスと言った。かつてはアインガストの中央議員を務めていた博のある年寄である。リーニスが国を追われた時に、一緒に流れ着いたのが彼であった。なぜなら、ミアスには王妃との接点があったからである。何を隠そう、フィオメイン王家がエリニスを選択し、内々に処分されようとしていたリーニスを逃したのは彼女の母であったと聞いている。
 しかし、その母ももうこの世にはいない。一人の側室にすぎなかった彼女の行為は恩赦を得られるようなものではなく、あえなく殺されたそうだ。
 母の死も知らず、リーニスは乳飲み子のままアインガストまで運ばれた。物心がついて、自分の生まれ故郷や身分のことをミアスから聞かされた時には、一国の姫であることを大いに喜んだものだった。
 だが、その反動もあって、事実を知った現在のフィオメインに対する失望は大きかった。そして、母の死の真実を聞かされたのが去年である。それまで事実を隠していたことに対するミアスへの憤りも多少ではなかった。最近になってようやくミアスの事情を理解し始め、すこしずつ許せるようになってきたが、和解というのは時間のかかるもので、今のリーニスとミアスの関係は少なからずぎくしゃくしていた。
 それでもお互いに歩み寄る気持ちがあるだけ、ましである。ただ、ミアスを許すほどに、フィオメインを許せなくなっているのも事実であった。
 そんなフィオメインからの手紙はくず籠のなかでも存在感を放っていた。天窓を見上げて、雨粒が落ちてくるのを待っているつもりだが、頭では手紙の事ばかりを考えている。破り捨てたものではあるが、それを読む術を知っていることが尚のこと腹立たせてくれる。
 やがてリーニスは埃が舞うほどのため息を吐いて、くず籠と向き合った。
 リーニスは念動で丸まった紙くずを動かして卓に乗せると、小瓶から茶色の液体を数滴ほど振りかけ、ぼそりと呟いた。
「大気に漂う小さな命の欠片たちよ。互いに律動し、その力を彼に与えなさい」
 すると突然、眩しくもない火花が紙くずの周りで飛び始め、ゆっくりと紙くずが熱に包まれていった。茶色に染まった紙くずがあっという間に火球に変わり、宙に浮いた。
「さあ、私のために生まれた言霊たち。命を得て目覚め、ここにその姿を見せて」
 リーニスの独り言が終わると、紙くずから茶色の煙が上がって空気中に文字を描き始めた。それが空文(そらぶみ)の術と呼ばれる歴史の古い魔術である。かつては密偵たちが頻繁に使用していたことは言うまでもない。
『リーニス様』
 最初にそう現れた。
『シフェル・ライアード』
 空文は万能ではない。思いの込められた単語しか現れないからだ。場合によっては、書き間違えた単語や、単なる記号が浮かんでしまうこともあるし、地図のような図形を表現するには限界がある。たいていの場合、最も気持ちがこもるのは最初と最後であるから、この文は例に漏れないものだと言える。今浮かんだこの文字は、差出人の名前なのだろう。
(ライアード……)
 妙にその姓に惹かれた。見知っている名をいくつか浮かべてみても結びつくものはなかったが、その響きはどこかで聞いたことがある。残念なことに、記憶を忘れさせる魔法はあっても思い出させる魔法はない。
 リーニスはひとまずほかの言葉に目を通し、文の全容を知った。
 簡単に言うと、アヴェリーという男が尋ねてくるという内容だった。リーニスと同じように、フィオメインを追われた者らしい。その男の助けになってほしいとシフェルは伝えていた。文はそこまで吐き出して燃え尽きてしまった。
 述べていなかったのか、あるいは伝える意志が弱かったのか、アヴェリーが何者で、何故リーニスを頼るのかといった情報は拾えなかった。
 国を追われたとはいえ、リーニスを王女と扱いながらも支援を求めるのだから、シフェルという男はリーニスに対して何かしらの恩を持っているだろうか。
 ミアスなら何か知っているかもしれないと思ったものの、文は彼の目の前で捨てたことになっている。いまさら聞き出すのも気が引けた。
(まあ、いいわ)
 結局、リーニスはひとまず忘れることにした。必要ならば、そのアヴェリーという者に聞いてみればいい。
 そうこうしている間に、雨季の走りの雨が屋根を叩く音が聴こえ始めた。
 乾季に入ってから長くの間、通りに巻き上がっていた砂塵が雨粒に包まれて地に帰っていく。やがてそれらが流れを成して街を洗えば、乾季の終わりはもうすぐそこである。
 乾季が終われば、晴れの日々と雨の日々を交互に繰り返してアインガストは街中に緑をはやす。街の中央にある風見の塔に茂る蔓草がしなだれるほどにイヴァの実を身に着けたら、『聖なる禊の祭典』が催される時節である。
 近域の貴族や司祭が集うその祭典はアインガストの華であり、この街から出ることが許されないリーニスが世界を感じることができる唯一の機会であった。その楽しみな祭典を今年はどのようにして迎えるのかと考えた時、一つの不安がよぎった。
 実は、去年も一昨年も祭典の人ごみの中に立ち続けることができず、ミアスに運ばれているのである。今も不眠からくる頭痛に襲われているように、近年のリーニスの体は異変に襲われていた。
 リーニスは唇をかんで再び横になった。目をつむると雨音が耳に心地よい。強く降り始めた雨が時とともに落ち着きを得るころ、リーニスは真昼の眠りに落ちた。

続く