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リルジャの足枷

VII.王女と老人(2)

 雨上がりの青空に歓喜する小鳥の鳴き声で、リーニスは目を覚ました。普段よりも鳥たちの鳴き声が高らかなのは、彼らも乾季の終わりを予期しているからであろう。
 窓を開けていつの間にか部屋に入り込んだ子蝿を逃がすと、澄んだ外の空気が流れ込んできた。虫が這うだけで舞い上がっていた砂埃も、雨の後とあっては出る幕もなく、湿った地面にはすでに轍が刻まれている。
「ミアス?」
 リーニスは部屋を出て下の階へ降りたが、老人の姿が見えなかった。
 出かける約束をした時には、準備ができるまで玄関で杖をついて待っているのが当たり前のミアスにしては珍しいことである。雨を挟んでしまっては、さすがに支度をして待っていることは期待していなかったのだが、姿すら見えないというのは予想していないことだった。
「ミアス? いないの?」
 不安になって声を張り上げたが返事はない。見てみれば、普段は玄関にかけられている彼の外套や杖もなくなっていた。
(空約束だったかしら)
 考えてみると雨上がりに出かける約束をしたというのは思い込みかもしれなかった。
 見た目どおりに外出したのだろうと考えたが、その行先に心当たりはない。昼は大分前にすぎているから、夕食の買い出しの時間には当たるものの、食卓には十分なほどのパンに野菜に果実が乗っている。それにもともと用事があったのだとすれば、朝に言うはずである。言わずに出て行ったということは火急の用事なのかもしれない。
 ミアスの行き先が気になったリーニスは、玄関横に置いてある植木の土を手に取った。もう一方の手で空気から火を起こして土を焼き水分を飛ばす。サラサラになった土を握りなおして、手のひらと小指の隙間から砂時計の砂のように落とすと、砂は空中で渦を巻いて老人の姿となり、そのまま東に歩き始めた。
「いいわ。戻りなさい」
 リーニスのその言葉で宙を舞った砂たちが、大気中の水分を吸って土に戻りながら、今度は植木鉢に帰っていく。それを見届けることなく、リーニスは身支度をして家を出た。
 東の空は未だに雨雲が覆っているが、天頂を境に雲が途切れて地面が西日に照らされている。日当たりの強いところでは、濡れた黄土が黄金色に輝いて見えるほどだ。砂嵐による大気の淀みが、先ほどの雨できれいに流されているのが瞳に触れる空気で分かった。
 不眠による疲れを理由に部屋にこもっていたために、外を歩くのは随分と久しぶりのことであるが、歩いてみると体に活気が戻ってくるような気がした。足が軽いわけではないが、不思議と止めるのが惜しいのである。
 ミアスの行き先については、土が東を示した時点で心当たりがあった。東には、アインガストの玄関口ともいえる中央通りがある。ミアスは街道の終点にあたるその場所で旅人を探し、情報を収集しているのだ。
 その行為に大きな意味はないと、ミアス本人は言っていた。老人の生きがいのようなものだ、と。
 不可解なことに、そうは言いながらも、そこでの出来事をミアスが語ることはあまりない。もちろん問えば答えるのだが、たいてい言葉数は少なかった。たまに知識と代償に価値のある物を手に入れてくることがあるが、それらをどのように使っているのかは聞いたことがなかい。
 最初はその老人の奇行とも取れる所業が気になって、ある時は直接、またある時は魔法で覗いたこともあったが、結局怪しいことはなかった。今になってはそれほど気にかけることもなくなり、ミアスがその辺りに出没するのは日常の一環として受け止めていたのである。
 しかし、それでも家を無防備にして出て行ったことは一度もなかった。嫌な予感とまでは言わないが、妙な胸騒ぎを覚えながら、リーニスは少しずつ歩調を速めていった。
 ミアスは中央通りを少し進んだ噴水の広場にいた。噴水を囲う石垣を背もたれにして、あぐらをかいて小さく座っていて、愛用の杖が張りのない肩にもたれかかっていた。
 良く見ると蓄えた髭が小刻みに動いている。どうやら石垣に座る男と話をしているらしい。そのさまを見て、リーニスはおやと思った。
 男の顔に見覚えはないが、ミアスと横並びで会話をしている。一期一会の旅人が相手にしてはありえないことである。人の目があるならば分からなくもないが、雨が上がったばかりの人けの少ない広場の中で、横から襲われでもしたら、目の当てようがない。
 つまりは顔見知りなのだろうが、さらに気になったのは男のフードであった。男は雨も砂嵐もない時に、フードを目深にかぶっていた。最近まれにみる爽快な空気の中で、フードをかぶるのは違和感がある。
 男に気を取られていると、ミアスの顔がこちらに向いて、リーニスはとっさに石塀の影に隠れた。その気になれば姿を消すこともできるが、一瞬のうちに執り行うには無理がある。身の回りの空間を歪めるのではなく、相手の目に魔法をかけて姿を隠すのであれば一瞬でも不可能ではないが、ミアスやフードの男に施術するには少し遠かった。
 ミアスの話し相手を考えてみたが、リーニスが見知っている人間は限られている。外出を好まない彼女のもともとの性分もあるが、自分の立場を知らされてから目立たぬように生活をしてきたせいで、人と会う機会をなくしていたせいである。その少ない記憶を辿ったころで、フードの男は心当たりのない背格好であった。
 もう一度顔を確かめるべく石塀の影から噴水を見やったが、すでに男の姿はなくなっていた。いつのまにか、そこには静かにたたずむ浮浪者のようなミアスだけで、リーニスは幽霊を見たような気分になった。
 リーニスは、ミアスが立ち上がるのを見計らって石塀を離れて近づいた。
「おや、リーニス様」
「ここにいたのね、ミアス」
「急に家を空けてしまい、申し訳ございませんでしたな。
 空気がとても澄んでいたもので、御目覚めを待てずに独りで出てきてしまいました、と言いたいところでございますが……」
「……?」
「リーニス様。
 見ておられましたな?」
「えっ?」
 突然の言葉に驚きながらも、思い出したことがあった。
 ミアスの勘は突然鋭くなることがあるのだ。本人は老い先短い爺への天使の囁きなどと言っているが、そうは思えない節があった。おそらくは職業病の一つなのだろう。議員のころに何をしていたのかは知らないが、そうした六感を必要とする職務を担っていたのかもしれない。
「……」
「あの男は旧知の友です」
 雰囲気を悟ったのか、ミアスが話し始めた。
「顔を人にさらせぬ顔を男なので、あのような如何わしいいでたちをしておりますが、中はまっとうな者です」
 急に男が家を訪ねてきたために、話しこめる場所に出たのだとミアスは言った。
「そう……」
 興味のないような相槌をうちながら、リーニスが気にしていたのは男の素性よりも会話の内容であった。黙っていれば自ずと話すかと思ったが、ミアスはそれ以上話さなかった。この場で語れるようなことではないのかもしれない。問い詰めることもできたが、リーニスは問い返すのをやめた。
「しかし、さすがはリーニス様ですな」
 急にミアスが笑みを浮かべて言った。
「何?」
「お言葉通りに、雨が降りました」
「よして。何か白々しいわ」
「お体は、とくに障りありませんかな。頭痛などは?」
「ひと眠りしたよくなったわ」
「そうですか。それは良うございました」
 ミアスは目が線になるほど微笑んだ。
 辻まで歩くと、ミアスは別の用があるというので二人はそこで別れた。どうやら杖を新調するらしい。ミアスのそれは楠を削って拵えた丈夫な物であるが、記憶する限り五年以上は使っている。歳とともに杖にかかる負担も大きくなって、最近は曲がってきているのを知っていた。
 リーニスは大きな通りを継いで街を一周すると家路に着いた。本当はめったに通らない家と家の間の路地を探求してみたい気持ちに駆られたのだが、日が傾き始めた時間にほの暗い道を通るのは気が引けた。それにつかの間でも豪雨だったようで、暗がりはひどくぬかるんでいる。
 家に戻ったのはリーニスが先だった。ミアスの杖はもちろん、外套もかかっていない。リーニスは植木鉢をひと撫ですると扉を閉めて二階の自室へ上がった。
 あわてて出て行ったせいか、窓は開け放たれたままであった。手前の卓上には天候を占ったままの状態でカードが並んでいる。
 リーニスが扉を閉めると、奇妙なことが起こった。
 不意に強風が巻き起こって卓上のカードを散らしたのであるが、その時に『破滅』を意味するカードの上に、見たことのない紅い石が乗っていたのである。

続く