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リルジャの足枷

X.再会(1)

 長くに渡って武力による制圧を排し続けたダブログ共和国にとって、議論の軸となる法は絶対的な力を持ち、時には人々の振る舞いすら定めて生活を護ってきた。その象徴たる存在が、共和国内のすべての街に築かれた賢者の石像である。ただのローブをまとった賢者ではない。賢者たちには必ず翼が生えており、その羽は後ろから見ると一冊の本になっている。つまり、その本こそが共和国の遺産なのだ。
「スタインバードか」
 アヴェリーは夕日に押し迫る夜空を背負いながら、街の入り口にかかる石柱のアーチを見上げて呟いた。アーチの奥にはもはや見慣れた石像が、かがり火に囲まれて立っている。その周りには旅客を呼び込む女たちの姿が見えた。
 フィオメインを旅立ってから二週間を経ている。シフェルの言いつけに従って一路にアインガストを目指す旅路は順調だった。心配していた追っ手も今のところは気配がない。最初の五日間に野宿をしてまで距離を稼いだのが幸いしたようであった。甲斐あって、このところは馬の疲れも考えて行動でき、それなりの宿で朝を迎えることができるようになっていた。そうは言っても、油断しているわけではない。
 アヴェリーはアーチを潜ったところで馬を下りて、横を歩いた。
「宿はお決まりですか?」
 最寄りの女が見逃さずに声をかけてくる。すぐに二人、三人と集まってアヴェリーは女たちに囲まれた。格好は皆それぞれであるが、いやに肌を露出されているのは暑さのせいだけではあるまい。
「いや」
 アヴェリーが首を振ると、すぐに女たちが、うちはどうです、と言って吸血鬼のように食いつく。アヴェリーはその一人一人にどこの宿か案内を頼み、最終的に案内されたなかった宿に決めた。地に足がついている宿なら、派手な客寄せをしなくともやっていけるはずである。もちろん、宿の外見や出入りする人の身なりを確かめる必要はあった。
 中に入ると番台に座る男と目があった。顔の右半分に十字の傷があり、一本は右目を縦に割って、もう一本は鼻筋を横に割っていた。まるでゴロツキのような顔であるが、すぐに思い出せる人相書きもない。
 少しの警戒心とともに、アヴェリーは男に尋ねた。
「部屋はあるかな?」
「ああ、あるぜ」
「何室?」
「……八室中、六室が空いてる。
 大勢か?」
「いや。私一人だ」
「……旦那。冷やかしはいけねえ」
 男がじろりと睨んだ。なおさらゴロツキのような顔になった。
「すまない。客引きをしていなかったから、満室なのかと思ってね」
「ここは俺と家内の二人しかいねえ。
 四十過ぎのばばあがドレス着ても、気持ち悪いだろ?
 だから余計なことはしねえんだよ。
 まあ、安心しな。金さえ頂ければ、その分の世話はする」
「そうか」
 アヴェリーはぐるりと回りを見た。極めて質素なつくりだが、壁も床も傷んでいるところはなく、きちんと営んでいるのが見て取れた。
「じゃあ、ここにしよう」
「そりゃどうも。
 あんた、共和銀は持っているのかい?」
 主人が言った。共和銀とはダブログ共和国の通貨のことである。
「悪いがうちは共和銀の客しか取らないんだ。よそ者を嫌っているわけじゃないがね」
 ダブログの一部の街でしか両替ができない共和銀を持っているかどうかで、客の人間性を図ろうというのだろう。身構えるような言い分ではなかった。二つ前の街でも同じことを言われたのだから。
「ある。何枚だ?」
 主人が無言で指を三本立てる。
 アヴェリーは三枚を卓上に並べると主人の顔を見て、もう一枚を置いた。
「なんだい。口止め料かい?」
「……のようなものだ」
「ふうん。鼻から客のことはしゃべるつもりないけどね」
 主人は共和銀四枚を手に取ると二、三回投げて重さを確かめた。鉄製のコインに銀を蒸着しただけの共和銀が空中で重たい音を立てて鳴り合う。
 たいていの旅人が共和銀を持たないのは、溶かすと元値を切ってしまうことにある。逆に言うと、共和銀を持つ人間はダブログに関わりの強い人間だということになり、商人にとっては取引に足る人間であることの証になるのだ。
 アヴェリーが共和銀を持つようになったのは、単なる偶然である。共和国に入って二つ目の街で入った宿に賊が押し寄せ、追い払った際に礼金として受け取った物だ。ダブログを旅するならあった方が良いとのことで、持ち金の半分をそれに替えた。
 アインガストに至るまでに通過するダブログ領内の街が残り一つであることを考えると、共和銀が二十枚も残っているのは替えすぎだったが、帰路を考えれば問題はないだろう。幸いシフェルが馬と一緒に見舞ってくれた路銀には十分な余りがある。
「いいだろう」
 主人はにやりと笑った。
「おい! お客だよ。八番に案内しな!」
 しばらくすると、先程ばばあと言っていた淑女が下りてきた。
「お客さんよ。厚遇はしないが、逃げやすい部屋を用意した。
 貰った金の分の世話はするが、面倒はみない。かまわないな?」
「十分だ。ありがとう」
「風呂はこの左奥。飯は部屋に用意する。ほかに用があれば、この女に言ってくれ。
 そういや、あんた。馬は?」
「連れている」
「なんだよ、一人と一頭かよ。
 まあいいや。馬屋と牧草は負けてやろう。洗ってやりたきゃ自分でやることだな」
 終いに鍵を手投げされて、アヴェリーは三階の一室に案内された。
 部屋の窓からは賢者の石造の後ろが見える。ちょうどこちらへ向けて開かれた翼の本は、内容を読ませるかのようだった。よく見ると、先頭に『序文』と書かれている。少なからず風化しているそれは読めたものではなかったが、そこには法典の第一項が刻まれているようだった。本は真ん中で開かれているのに、そこに序文があるのは可笑しな事だが、それは愛嬌とでも言うべきだろう。
 日没を迎えて、人々が早足に歩き去っていく。宿を探す者、家路を急ぐ者、行先はそれぞれだが誰もが暗闇を恐れて動いていた。
 アヴェリーは人間観察をほどほどに、馬屋へ向かった。蹄鉄の減り具合を確かめ、鞍を下ろしてやらなければならない。
 馬屋は宿の玄関口と同じ通りに面していた。入射光を失った馬屋は漆黒に満ちている。八頭が入る馬屋だが、一番奥の一頭は宿主のものらしかった。
 入り口に吊るされていたランタンを手に取って中を進むと、アヴェリーの連れ馬はすでに二つ目に収容されていて、他に二頭の馬の鼻先が見えた。どうやら移されてすぐだったらしく、アヴェリーの馬は木桶に注がれた水を飲んでいる。横に積まれた干し草はそのままであった。
 アヴェリーは柵をくぐって中に入り、一足ずつ持ち上げて蹄鉄を確かめた。ここに至るまでの道のりは決して軟土ばかりではなかったのだが、蹄鉄にはひび割れ一つ生えていない。シフェルの手入れがどれほど念入りにされていたのかは知らないが、現場を離れて長いはずの親衛隊長の馬にしては不思議なぐらい頑丈な蹄をしている。そんな疑問はあったが、今は問題が無いことに越したことはなかった。
 アヴェリーは手早く鞍を下ろすと裏井戸から水を汲んで馬の体を拭いた。手ぬぐいはひと拭きするたびに真っ黒になった。
 最後に鞍を担いで馬屋を出ようとした時に、馬屋の奥で音がした。積み上げた干し草が崩れたようだったが、同時に人の吐息のような音が漏れたのをアヴェリーは聞き逃さなかった。
(誰だ?)
 すぐに奥を照らしてみたが、もう物音はしない。だが、確実に誰かが息をひそめている。
 この位置から弓を仕掛けるようなことは乱暴で気が引けるが、腰に下げた剣ならば相手の出方で応戦できる。アヴェリーは静かにベルトから鞘を外すと、緊張を解かずに馬屋の入り口まで戻ることにした。
 馬屋の入り口から密かに中を観察する。入り口に下げたランタンの光が、辛うじてアヴェリーの馬の鼻を照らしていた。もともと臆病な気質の馬に害意のある人間が近づけば、今照らされている鼻が光と闇を行き来するはずである。アヴェリーはそれを待った。
 鼻の影はすぐに欠けた。
(来た)
 何者か知れないが、確実にアヴェリーの馬の傍に立っている。しかし、思っていたほど馬が暴れていない。どうしたことかと怪訝に思って覗き込んでいると、そのうち馬屋の中で干し草を頬張る音が聞こえてきた。どうやら餌付けしているらしい。
「いい子だ」
 男の声がした。しゃがれても甲高くもない、特徴のない声だ。
 謎の男は干し草を食わせると柵の中に入り込んだが、すぐに出てきた。馬泥棒のような動きである。男は馬の鼻筋をひと撫でした後、こちらに向かって歩き始めた。
 アヴェリーは鞘を払い、入り口で息を潜めた。
「……」
 ランタンの手前まで来たところで、男の足音が止まった。
「その剣。納めるつもりはないか?」
 こちらの姿が見えているのか、男が言った。
「……貴公の答え次第だ。馬屋で何をしていたのかを教えてくれ」
「……」
「答えられない、ということか?」
「いや。
 その前に確認させてくれないか?」
「……」
 アヴェリーは男の口車に載せられまいと、口を紡いだ。
「お主、もしやアヴェリー・オルフではないか?」
 いきなり名を呼ばれて驚くアヴェリーに、男は続けた。
「答えないということはそうなのだな?
 俺だ。ハーサット・キベックだ。エネハイン第一騎兵隊に志願して落っこちた半端者の……」

続く