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リルジャの足枷

XVII.隊の死(2)

 一人残されたシフェルは、ナイフに写り込む自分と向かい合っていた。
 獄中生活の間に顔は痩せこけて盗賊のように髭が生えている。いつの間にか、見慣れた顔ではなくなっていたが、ずいぶんと懐かしい顔でもあった。
(ここまで髭を生やすのは、あの頃以来か)
 騎士たる者、無精髭を生やすことは許されない。自分自身に課したそういう規則もあって、まめに剃ることを習慣づけてきたシフェルであったが、一度だけ今のようになったことがあった。忘れもしない、生きることに気を病んで酒に溺れた時の事である。
 その時もちょうど今のような顔をしていて、弟のミアスに呆れられたのだった。
『兄さんは、なぜ立ち上がろうとしないんだ?』
 何年たっても色焦ることのない過去を、当時と同じようにほの暗い部屋が、か弱い外の光が、より鮮明に思い出させてくれる。
 シフェルは己の顔を見つめながら、十七年前のその当時に思いを馳せた。
『ほっといてくれ。……もう終わったことだ』
『終わった事? 僕にはそう思えないけれど?』
『……俺にかまうな』
『呆れたよ、兄さん。
 それが、世界に名を轟かせる騎士を目指して孤児院を出て行った人の言葉なんだね』
『……』
『何とか云ったらどうなの?』
 その時は返す言葉がなかった。己の不甲斐なさに気付いていなければ、売り言葉に買い言葉といったかもしれないが、その時は自分の不甲斐なさも分かっていたせいで、何も言えなかったのだ。
 見かねたミアスが部屋のカーテンを思いっきり引っ張り、シフェルは取り込まれた外の光に耐えられずに毛布をかぶった。その時の光が、今の天井の隙間から漏れる月光とよく似ている。
「……まぶしいな」
 シフェルはつぶやいた。当時は言えなかった言葉である。
『本当にこのままでいいの?』
 光に浮かぶミアスが言った。
『兄さんさえ立ち上がるなら、僕は従うよ』
『……ミアス。
 もういいんだよ。もう、終ったことだ……』
『そう?
 本当に終わったと思っているなら、なぜ次に進もうとしないんだい?』
『……そのうちな。今はとにかく、なにもかも、やる気がしない。
 だから、ほっといてくれ』
『放って置けないから来てるんだ!』
 まばゆい光を背景にして、ミアスは叫んだ。
 なぜ、そうまでミアスが叱咤するのか、その時のシフェルには分からなかった。その時はただただ面倒で、一刻も早く部屋から出て行ってほしかったものだ。
『僕は聞いたんだ。王宮の噂を……』
『噂が何だ』
 勝手に話を続けるミアスに、シフェルは苛立った。
『ロアンナが俺ではなく、王宮を選んだのは紛れもない事実だ。
 だが、彼女には家柄があり、立場もある。それは理解しているし、恨んでもいない』
『ならどうして……』
『どうしてここまで落胆しているか? そう言いたいのだろ?
 俺はな、何もできない、してやれないが悲しいんだ。
 騎士などと言っても、所詮は公僕。王宮はおろか、貴族にすら逆らえん。俺一人がわめいたところで何にもならない。今ここで俺が騒げば、その分だけロアンナは迷惑する。互いにとっていい結末を迎えるはずがない。だから俺は、押し殺して、狸根入りするしかない。
 お前は、俺がそんな現状に満足していると思うか? しているわけがないだろう!
 しかし、それが現実だ。感情をぶつけるべき相手はいない。俺はこの感情が消えるまで、ただじっと、死んだふりをして耐えねばならんのだ。それが公僕たる俺の責任なんだよ。
 お前だって同じだろう、ミアス。院長の指示がどんなに酷であっても、監視院に属するお前には逆らうことができないはずだ。それが、国に勤めるという事なんだ』
『……分かっているさ。
 だけど、兄さん。兄さんは今すぐに立ち上がるべきだ』
『しつこい!』
 シフェルは寝返りをうって背を向けた。
 丸まって小さくなった背中にミアスが喋り続ける。
『僕は聞いたんだよ。国王陛下とロアンナ様を取り巻く陰謀を』
『……』
 どういうことだと問い詰めたい気持ちを抑えながら、シフェルは次の言葉を待った。しかし、ミアスにもためらいがあるようで、落ち着かない静けさが二人を囲んだ。
『兄さん』
 少しの間をおいて、ミアスが言った。
『……王宮と戦う勇気はある?』
 その時のミアスの声色は、今も鮮明に覚えている。喧嘩っ早い自分とは違って、いつも理性的で平和な解決を好む彼が唯一見せた殺気であったからだ。
『この先の話はとても危険なんだ。
 院に務める僕でさえ、命が危ない』
『……そんな話を、まさか俺のために仕入れてきたっていうのか?』
『兄さんの為じゃない。ロアンナ様の為だよ。
 今の兄さんには、命を懸けて働くほどの魅力はないもの。
 だから、もう一度聞くよ? 王宮と戦う勇気はある?』
 辛辣な一言だった。
 今にしても、間違いなく同じ力を持っている。
(俺は何度、あいつに救われたのだろう)
 シフェルは隙間の空に見える月に向かって苦笑した。
 結局その時は、弟にそこまで言われて立つ瀬も無く、態度を改めたのであった。
『話せ。どうするかはそれから決めるが、逃げないはしない』
 ミアスに聞かされた話は、すぐに信じられないものだった。シフェルはそこで初めて、国王陛下の側室に入ったロアンナの本当の背景を知ったのである。己の力不足で王宮を選んだとばかり思っていた婚約者が、聞くに堪えない陰謀の駒となっていたことを。それは考えたことのない世界で動き出している出来事であった。
『さあ、どうする? 兄さん』
『……』
 王に忠義を尽くす騎士ではなく、この世に生まれた人として考えたのは、この時が初めてだったろう。シフェルは長い思案の末に、自らの人生を変える決断を下した。
『国を止めねば。レフェスが戦火に見舞われてしまう』
 ミアスはシフェルの言葉に大きくうなずいた。
『だけど、僕らだけでは無理だよ』
『分かっている。
 ……ひとつ、心当りがある。ディアクク会を知っているか?』
 真実を偽らずに言えば、シフェル自身も知っていたのは名前だけで、その時はまだ修行路沿いの町や村で活動をする秘密集会のようなものだと思っていた。いずれにしても、シフェルのその一言が、それぞれの胸に羽十字を刻むきっかけになったのである。
『初めて聞く。それは一体?』
『……民のための集団だと聞いた。去年、エネハイン共同遠征へ参列した時に関わったことがある。どうなるか分からないが、掛け合ってみよう』
 ミアスは口を真一文字に結んで、こくりとうなづいた。そのミアスの表情を、今もまざまざと思い出すことができるのは、それが二人の覚悟を物語る一幕になっていたからだろう。
 それから、大きくも小さくも、数多の正念場が生まれ、犠牲が生まれた。二人が散り散りになったのも、その犠牲の一つと言えたが、それは小さなものだろう。すべてが終わったわけではなかったが、ともに生き残ることができたのは一つの救いであった。
「ミアス。お前は、どれほど老いた?」
 今に還って、シフェルが呟いた。
「髪は白いか? まだ毛はあるか? 歯は、健常だろうな?
 お前を巻き込み、人生を奪った俺を許してくれ」
 シフェルの知る弟は、若年の姿のままだ。
『兄さん』
 牢獄に浮かぶ若者の幻影が語りかけてくる。
『それが運命だというなら、僕は従うよ。
 兄さんの愛した人の名を、レフェスの暗い歴史に載せる訳にはいかないから』
 若者は、かつてシフェルに語った時と全く同じ言葉を残して、天井から漏れる光に消えていった。
「そうか。そうだったな」
 シフェルは鉄格子にもたれかかって、ぽつりと言った。
 自分の瞼が温かく湿っているのが分かる。
(俺は至らない兄だ。ミアスが居なければ何もできなかった)
 目のぬくもりが涙に変わってだらしなく流れるのを、シフェルはそのままにせざるをえなかった。首から流れ出る赤い道は足元で溜まり、床に敷き詰められた石の隙間を埋めていく。そこには、ロイドから受け取ったナイフが落ちていた。体温が流れ出ていくのに、なぜか体は温かい。
 シフェル――
 ぼんやりと白い視界に、名前を呼ぶ声がする。声が幻聴かどうかは、今のシフェルには関係のないことだった。とにかく、愛した者の声は忘れることができない。
(ロアンナ?)
 白いドレスが見える。王宮に入った時に彼女が来ていたものとは違うものだ。それが何であるかは忘れていない。いつか渡そうとしていた、シフェルの母の形見である。
 ロアンナの口が、ゆっくりと微笑んだ。
 
 風が唸り声をあげ、時に吼えている。夜半の雲は際限なく湧き上がっては押し流され、時の流れを早送りするかのように空を駆けていた。
 テラスから空を見上げると、その忙しない東の空を流星が走った。流星は、長く長く尾を引いた後に短い光を発して、目の前から消えた。
 その瞬く光から、空を見上げる老人が知ることは何もない。兄弟という血のつながりが、何かを報せたが、ミアスはその報せを受け取らなかった。不幸の報せを手にした配送者を追い払うように、胸騒ぎに目をつぶってテラスの戸を閉ざしたのだった。
 部屋は中も外も乾ききっていた。リーニスの予告通りに一時は雨が降ったものの、雨雲はすぐに消え去って、アインガストは再び乾いた空気に覆われている。
 この時期には珍しい通り雨だと街の者は思ったのかもしれないが、ミアスは違った。
(雨を降らせることすら、不可能ではないかもしれん。<今の>王女には)
 寝静まった王女の寝室からは、羽音が漏れている。

続く