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リルジャの足枷

XXI.闇の遭遇(1)

 『エイシー・ノイ・アルア』という古い語を現在の言葉で訳すと『八十九域』になる。かつて、大陸全土の制圧を目指したレフェスの古王が世界を表現する際に用いた言葉がエイシー・ノイ・アルアであり、結果的にその王はレフェスを統べることも、歴史に名を残すこともなかったのだが、その言葉だけが、レフェス全土の代名詞として、はたまた、広大さを表現する形容詞として現在に残ったとされている。
 その言葉を語源とするアイシノイの森は果てしなく、乾季をもつ近域の中にあっては、樹海という表現が適する数少ない存在である。それは同時に、踏み入れた者の命の行く末を暗示する言葉にもつながっていた。樹海に踏み込んだ旅人という言葉に、明るい未来を想像する者はいないだろう。とくに、斧が欠けるほど堅いロカアシと呼ばれる針葉樹が密生するアイシノイには、故郷の森のような温かみはない。
 白骨となって土に還っていくのは、なにも人間だけではない。方角を失えば動物や魔物でさえ同じ運命をたどることがある。樹海で生きていけるのは、その環境に適応した既成種と確かな経験のある熟練者だけなのだ。
 今、アイシノイの土を染める深緑の苔に抱かれるようにして休息をとるグレナードは、間違いなく確かな経験を持つ者である。ラスタニア、エネハインと立て続けに国の滅亡に関わってから、公路を避ける必要があったグレナードにとっては森も山も洞窟も通り道に過ぎず、座れるだけの広さがあれば、それは寝床である。横になれるその場所は高級な宿そのものだ。ただ、どこで寝るにしても、大きな剣はいつでも右手に握り込まれている。
 横に敷いた焚火の火が消えてからずいぶん経った。火を恐れていた虫や小動物は様子をうかがいながら近づいてきたが、グレナードの左腕を本能的におそれているのか、体に触れる前に来た道を返して、グレナードの目の前にある古株に隠れていく。
 その古株は落雷で折れたロカアシの株だろうが、人が作り込んだかのように等間隔に木々が生える樹海においては貴重なものだ。大木が退いたおかげで、空を邪魔するものが無くなり、ほかの場所よりも光が差し込んでくるのである。とりわけ今のように夜を迎えようとするときにあっては、周囲よりも少しだけ長く、光を捕まえていてくれる。
 夜を前に横たわってっているグレナードだが、旅に疲れて多めに休んでいるのではない。夜に備えて仮眠をとっているに過ぎなかった。既成種にとっても熟練者にとっても、アイシノイの夜は歩くべきものではない。『アイシノイの夜』と『死の闇』は同意義だからだ。
 針葉樹の先端が山影に入ったと同時に、グレナードがぴくりとした。眼は先に開いている。眼下の緑が色を深めて青になっていくその変化を捉えていた。
 次第に光が苦手な夜行性の小動物たちが目覚め、周囲の木々を騒がせていく。グレナードは、そこここで鳴るざわめきを耳にしながらも、起き上がろうとはしなかった。本当に危険なのは、張り詰めた静寂が長く続いた場合であることを知っていた。
 こうした静寂の攻防ともいうべきやり取りは死の闇が去るまで続く。身を護るためには眠ることができないが、むやみに動いて魔物を触発すれば、戦いの中で方角を見失うことになりかねない。無難に朝を迎えるためには、ただじっと息を潜めて夜明けを待つのである。夜が明けたら仮眠を取り、陽が高い間だけ移動をし、また仮眠を取って夜に備える。その繰り返しである。もし二人旅であれば、変わり番をして夜を有効に活用することもできるのだが、独りではそういうわけにはいかない。森と公路のどちらが楽かは瞭然だろうが、選択肢のない人間にとってはやむを得なかった。世を追われた者に安住の地はないのだ。
(……)
 周囲の音が止んだ。
 危険な静寂か否かは、目の前の甲虫が地中に潜って知らせてくれた。
 次の情報は土に着けた右耳が報せた。二組の足音がこちらに近づいている。四足獣ではない。微妙に音の重なりに揺らぎがある。亜人の可能性を考えたが、すぐに否定できた。一定の拍がない二人の足音は、森に慣れていないことを宣言しているようなものであった。樹海に住む亜人ならなば、そんな不協和音は生じない。
 足音は通りすがりの様子で、こちらに向いてはいなかった。もちろん、こちらとしても声をかけに行く用事はない。ただ、その二人が新たな危険因子を巻き起こさないことを願いながら、グレナードは静かに息を吐いた。
 

「この辺りで夜営にしないか。アイシノイで迷子は洒落にならん」
 後ろを歩くハーサットに言い止められて、アヴェリーは立ち止った。ハーサットの意見に異論はないし、アヴェリーとしてもそろそろ休もうと考えていたところであった。両足に影が張り付くようになってから、結構な距離を歩いている。替わり番をすることになるのだから、ある程度の余力は必要だろう。
 二人は適度に広い場所を見つけて腰を下ろした。
「やはり、馬が無くては捗らんな」
 拾い集めてきた枝を並べながら、ハーサットが言った。
 二人の馬はアイシノイの入り口に置いてきた。レドベグが<世話をする>と言っていたその言葉を信じてのことである。
「そうだな。下馬騎士のなんとやら、だ」
 アヴェリーはハーサットの敷いた枝に火をくべた。灯りが生まれると、広いと思っていたその場所は割と狭かった。それでも、二人が寝るには十分な広さがある。
「……静かだな」
 不安を感じたのか、ハーサットが言った。
 こころなしか、彼の斧を磨く手がいつもより念入りになっている。
「そうだな」
 つられてアヴェリーも、念入りに弦の張り具合を確かめた。
「そういえば、アインガストに用事があるというのは、いったいなんだ?」
「ああ。話していなかったな」
 戦斧に顔を写しながら、ハーサットが言った。
「……俺の従妹を覚えているか?」
「従妹?」
 顔はすぐに浮かんできたものの、名前までは浮かんでこなかった。エネハインにいたのは十年近くも前のことで、無理もなかったが、確かに当時のハーサットには腰ぐらいまでの背丈の少女がくっついていたのは覚えていた。
「ああ、覚えている」
「従妹の婚約者がグレナードを追う部隊に所属したんだが、単独行動を起こしたそうでな、半年前から行方不明になった。情報によると、最後に見かけたのがアインガストらしい。アインガストから山奥の遺跡に向かったそうだ」
「遺跡?」
「塔だと言っていた。名前は、……忘れた」
「肝心なところではないか」
「聞いたことのない名前だった。ヘメとか、レネとか……。まあ、今の言葉じゃなかったから、記憶に留まらなかった」
 ハーサットは逃げるように言った。
「とりあえず、着いたら情報召集だ。何にせよ、エネハインで一人ぼっちの従妹を悲しませるわけにはいかんからな。
 お前はどうするんだ、アヴェリー。その王女のところに居候するつもりか?」
「いや、そのつもりはない。いずれは、胸を張ってフィオメインに帰りたいんだ」
「……気持ちは察するがな。ほとぼりが冷めるまでは、アインガストに籠るのも一つの手だ」
「どういうことだ?」
「知らないのか? フィオメインとパレグレオ大公国の仲は非常に神経質で、近隣国としての体面はそこそこに、常々腹の内を探りあっている。一部では戦に発展する寸前だと言われてるぐらいだ」
 その国情の背景にいるのが南の大国アメレシアだ、とハーサットが言った。
 この頃のレフェスには三大国家と呼ばれる三つの国があった。第一にアメレシア、第二にリュティード、そして第三にモルシアロイカである。
 宗教国家であるモルシアルイカの領土は、大昔から約束されているいわゆる聖地であり、不可侵のものであったが、アメレシアとリュティードは違っていた。同じくらい古い文化を持つ両国は昔から衝突が多く、幾度となくレフェスの南部地方を戦火で焼いてきた。そのおかげで、フィオメインやエネハインのあるレフェスの北側の国々は、大戦に巻き込まれることも両国に支配されることがなかったのであったが、近年になって、アメレシアとリュティードが停戦調停に判を押す動きをし始めたのである。
 北側の小国はあわて始めた。調停は停戦であり、終戦ではない。停戦の間にどれだけ戦力を向上させるかということが両国の目標になる。それはつまり、決定的な教会のない北方をどれだけ選挙するかということだ。
 調停が現実のものとなり、リュティードとアメレシアが北方に進出した場合、小国がとる手段は二つしかない。小国どうしで団結し巨大国との戦いをはじめるか、従属国になるかの二つである。
「パレグレオは従属国を選んだが、道は複雑だった。アメレシアは軍国で、リュティードは貴族大国だ。どちらも辺域の集落に対する扱いは芳しくなく、重度の徴兵か徴税が掛けられるのは目に見えている。選ぶとするならば、宗教国家モルシアロイカになるが……」
 宗教国家にとってフィオメインほど、許されざる存在はない。神学で栄えるモルシアロイカが、魔術を信仰し統治する国を許すはずがないのだ。
「大公国がモルシアロイカと握手するには、フィオメインを片づける必要がある。フィオメインもそれを感じているだろう。両国のつながりが冷ややかなのはそういう理由だよ。
 だから、ダブログと違って、パレグレオにはフィオメインの手が入らない。安全な隠れ蓑になるっていう事だ。きっと、シフェルさんとやらも、それを利用してアインガストを使っているんだろうな」
「いつからそんなことに?」
「さあな。騎兵隊の頃からそういう話は耳にしていたから、二十年は経っているじゃないか?
 飽きもせず続いているのは、リュティードとアメレシアの関係がころころ変わるからだろう。停戦調停の話が出るたびに、パレグレオとフィオメインの関係が見直されるんだろうぜ。
 ちなみに余談だが、近隣諸国にとって一番良いのは、かつての大国、カーナロキアが覇権を取り戻すことらしい。もともとこの辺りの公路は、ロキアンの財力で成っていたようなものだからな。カーナロキアが復活して、その傘下に入るのが元の鞘で、それがアメレシアやリュティードを黙らせる一番の方法なんだとさ」
「……詳しいな」
「人から聞いたんだよ。国の中より外の方が、学ぶことが多いんだぜ?」
 話が終わる頃には、互いの得物の手入れは終わっていた。

続く