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リルジャの足枷

XXII.闇の遭遇(2)

 吐息とともに立ち上がったハーサットの腹が鳴った。夕食にはまだ時間があるはずだが、アヴェリーよりも早く昼飯をつまみ食いした分だけハーサットの腹時計は進んでいるらしい。
 レドベグが用意していた食料は十日分の煎り豆であった。渡された地図によれば、森を抜けた先にある山里までは八日と十分に足りる量であるだが、その日数が盗賊の足で数えらえているのかまでは聞いていない。二人にとって十分な食料かどうかを結論付けることができない以上、節制は必要だった。
「分かってる。我慢するさ」
 物言わぬ視線を受け止めてハーサットは自重したが、アヴェリーがうなづくより早く、腹時計が次の時刻を告げている。
「よし、こうしよう」
 少し考えて、アヴェリーは砂時計を取り出した。
「お前は先に食べて寝る。その間は俺が見張りをして、砂が二往復したら交代だ」
「すまんな」
 詫びながらも、ハーサットの食べ方は馬の様だった。下あごが横に動くのである。その様があまりに人間に思えず、アヴェリーはハーサットが寝て独りの番になった時にその様を思い出して苦笑した。
 夜を迎えたアイシノイは暗黒の一言に尽きた。ロカアシは一様に背が高く、月や星の明かりは下まで届かない。それに、どこからともなく湿気が下りてきているらしく、焚火は砂時計の片道も保証せずに潰えてしまった。時折、繁殖期を迎えた光る虫が明りをもたらすことはあったが、二人を照らすほどの明るさではなかった。
 闇のなかでアヴェリーはこれまでのことを思い返していた。旅立ちから随分な時が過ぎているのに、真っ先に考えるのはフィオメインのことだ。シフェルよりもフィルクスに対する心配の方が大きかったが、現実にはすでに逆になっていることを、アヴェリーは知るよしもない。
(早く濡れ衣を晴らさなくてはな)
 そんな思いに駆られて、自然に手が伸びたのは懐にしまっていたセオン紅石だった。暗闇だというのに紅石の赤は、紙に落とされたインクのように際立っている。シフェルの部屋で見た時は気が付かなかったが、セオン紅石は普通の宝石と違って自ら光を発している。先ほどの虫よりも弱くて小さな光だが、この暗闇の中で色を識別できるという事がその証拠であろう。辺りの闇が濃いせいか、その宝玉の中に血がとじ込まれているように見えた。
 セオン紅石とは何なのか。石を眺める間にアヴェリーはそんなことを考え始めた。エネハインの王族が身についていたことは実際に目にしていたが、持ち主の元に戻るというのは聞いたことがあるに過ぎない。それも誰から聞いた話であったのか、今や覚えていない。
 重要なのは石の謂れよりも、この得体のしれない石を使って魔物を操る者の正体であり、その狙いである。いったい誰が何のために事を起こしているのか。それだけである。
 紅石を手にとってそんなことを考えた時、にわかに石が熱を持った。ほんの一瞬であったが、熱湯に触れたような高熱に驚き、アヴェリーは紅石を手放した。
『鍵を渡せ』
 謎の声が聞こえた。
 立ち上がって辺りを見回したが、何者の気配もしない。
 紅石は何事もなかったように足元に転がっている。
(幻聴か?)
 再び石に触れてみたが、熱はなかった。石は元通りに、か弱く赤い光を抱いている。
(……)
 何度か持ち替えたり掲げたりしてみたが、紅石は熱を持つことも怪しげな声を出すこともなかった。
 神妙な心持で石を確かめていると、次第に鼻がむずむずとしてきた。埃でも吸ったのかと思ったが、違和感はすぐに収まらない。よく目を凝らすと粉雪のようなものが視界に舞っていた。
 アヴェリーは手を伸ばして触れようとしてみたが、微かな空気の振動に揺られて掴むことができない。しかし、それらが外套に積る様子を見て、胞子の一種であると知った。
 しばらくはその景色を傍観していたが、正体不明の胞子に毒性が無いとは言い切れない。アヴェリーは紅石を懐にしまってフードを引っ張りおこすと、ハーサットには毛布をかぶせて様子を見ることにした。
 粉雪のような白い胞子は尽きることなく舞い続けるが、森の様子は以前のままだ。ハーサットを起こすほどの物なのか悩んだが、胞子に触れている布や金属、地面に異常は見受けられず、害はないようにも思えた。
(一体どこから出ているんだ?)
 アヴェリーは暗闇に目を凝らした。すると、明らかに胞子の舞い方が異なる場所が少し離れたところにあった。地面から噴出しているように見えるが、手前の起伏が邪魔をして、少し身を乗り出したぐらいでは見えない。観察し続ける限りでは怪しい雰囲気とは言い難かった。窪地で茸が群生しているだけのようだ。
「ふう」
 鼻から安堵の息を漏らした時、何かが膝の上に落ちた。見ると数滴の血であった。すぐさま上を見上げたものの、魔物も動物も影は一つもない。木の枝ひとつ揺れていなかったが、その所作で何の血か分かった。
 血はアヴェリーの鼻から垂れていた。息を吸うと鼻孔の奥が貫かれたように痛む。
(……胞子か)
 ほかに思い当ることはなかった。
 血は息をする度に鼻から垂れて、アヴェリーの襟元はすぐに真っ赤になった。手荷物から解毒剤を探す間に毒は鼻から眼に回り、涙腺からどろりとしたものが流れ出るのを感じた。息苦しさに手も震える。
 ハーサットを起こそうかと考えたが、下手をすれば大欠伸ひとつで死にかねない状況にある。悪ければ、すでに絶命しているかもしれない。毛布をかぶっているとはいえ、足元の方が胞子が濃いのだ。隙間から入り込んでいたらひとたまりもない。
 血液か涙か分からない物に瞳を濡らしながらも、アヴェリーは何とか解毒剤を取り出した。この胞子に対して血清の役割を果てしてくれるかは不明だが、精霊の休息地と呼ばれる『雨の丘』で採取したこの浄化薬なら、何らかの効果をもたらしてくれるはずである。それだけを信じて、解毒剤を目と鼻に流し込んだ。鼻から流れ込んだ水はアヴェリーを咳き込ませたが、結果的に解毒剤が喉を護ることになり、呼吸を容易にさせてくれた。
「うぬぬ」
 アヴェリーの咳にハーサットが応えた。まだ起きてはいない。毛布の内側で目覚めを嫌うかのように、蠢いているだけだ。
「ハーサット」
 跳ね起きられては困ると毛布を抑え込みながら、アヴェリーが寄った。
「……おおう、今替わる」
 眠そうな声が聞こえる。
「いや。非常事態だ」
「何?」
 毛布に内側から力が加わる。
「そのままだ。外は毒の嵐になっている」
「お前は平気なのか?」
「『雨の丘』を飲んだ。しばらくは大丈夫だろう」
「そうか。で、何の毒だ?」
「分からない。白い胞子だ。心当りはあるか?」
 ハーサットは遠征部隊として第二騎兵隊に所属していた。人里離れた村にも向かう第二騎兵隊は、森や山、洞窟と言った土地に足を踏み入れることも多く、野外の知識も信頼できるものがある。
「……ペグラーサかもしれない」
「ペグラーサ?」
「壊死茸ともいう。人体に入り込んで、壊死させた内臓に寄生する茸だ。大体、吸うと鼻血が出る」
 気になって触れてみたが、もう出血は止まっている。
「どうやら、そのベグラーサだ」
「なら毒性は低い。『雨の丘』で十分だろう。俺にも分けてくれ。暑苦しくてかなわん」
 アヴェリーはもう一つを取り出して、毛布の中に送り出しながら聞いた。
「発生源は見つけた。焼却しようか?」
「いや。刺激はするな。ペグラーサは共生種でもある。アンデッドの背中に生える事が多い」
 ハーサットが斧を握りしめて、毛布から出てきた。煎り豆を食べていたときからは想像できない精悍な顔をしている。
 アヴェリーは探索をハーサットに任せて、矢を番えて援護を準備した。木々の隙間を闇が埋める森の夜は今まで味わったことのない視野の狭さである。場合によっては弓を捨て、腰の剣を抜き取ることも必要だろう。
 ハーサットが慎重な足取りで一歩ずつ胞子の発生源に近づいていく。その背中を瞬きひとつせずに見守っていたアヴェリーの耳が、小さな音を捉えた。
(蝿?)
 小さな羽音がアヴェリーの左耳をかすめたあと、その羽音の主が姿を現した。何の変哲もない蝿だった。蝿はアヴェリーの懐周りをぐるぐると飛んだ。
「なんだ」
 アヴェリーが蝿に気を取られていると、ハーサットが呟いた。胞子の発生源で何かを見つけたらしい。
「森梟の死体だ。死後十日っていうところか」
「危険は?」
 ハーサットは斧の柄で死体を転がして確かめた。
「こいつ自体にはないな。ただ、この胞子の匂いを嗅ぎつけてやってくるアンデッドもいる。気を付けるべきだろう」
 アヴェリーは目の前の蠅に目をやった。ハーサットの言葉通りに、こいつも胞子に招かれてきたのだろう。そう考えた時に、またもや耳元で違う蝿の羽音が聞こえた。
「ここを離れるか。おちおち寝てもいられない」
 順番でいえば、今度はアヴェリーが寝る番である。寝耳に水ならぬ蠅が集るのは勘弁だった。
「どうする? ハーサット?」
 答えを渋るハーサットに投げかけると、ハーサットはアヴェリーの顔の少し上を見ていた。
(――!)
 その視線で気づいた。真後ろにただならぬ気配がある。
 子虫の羽音ばかりが気になって全く気付いていなかったが、そのものの影は森の闇と同化しているようでいて、きわ立っていた。

続く