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リルジャの足枷

XXIII.闇の遭遇(3)

「アヴェリー!」
 アヴェリーはハーサットの声より速く地面を蹴り飛び、地面を転がった。転がりながらにして弓と矢を両手に収めることも忘れず、立ち上がった時には尋常ならぬ気配を醸し出すその魔物を射ることもできた。
「射るな! 蝿の竜だ! 下手に触発するんじゃないぞ」
 ハーサットは両手の戦斧を背に隠していた。腐食しているとはいえ、立派な竜として扱われるヴェルゼルスである。知能も魔力も人間以上と謂われるその生命体は、こちらの動向を的確に見抜き、分相応の反応を示すに違いない。アヴェリーもハーサットに見習って、つがいかけた矢を引っ込めた。
(……)
 先ほどまでとは違う悪趣味な静寂の中、奇怪な形をした六本の足が蝿を従わせてこっちに向かってくる。牛の歩みのような遅さが却っておぞましい。蝿は何処からともなく数を増し、血肉が見え隠れしていたヴェルゼルスの赤銅色の体躯を、森の闇と同化させていく。森を駆け抜けた疾風がヴェルゼルスの顔にあたって、顔の周りの蠅が飛ぶと、露わになった顔は半分以上の血肉がそげて、骨格だけだった。片方だけの眼球に光はないが、不浄の魂だけを携えているような不気味な存在感が見える。
 その瞳が再び蝿に閉ざされる時、ゆらりと赤い光が燃えたのを、アヴェリーは見逃せなかった。ついさきほどセオン紅石の奥に見た、イミールの記録を甦らせるあの光だった。
『……鍵を渡せ』
 あの時のイミールと全く同じ言葉を、ヴェルゼルスが言った。
 知能のないイミールと違い、ヴェルゼルスという一つの竜族が人間に通じる言葉を話すことは、常識的なことなのかは分からない。しかし、その時確実に言えたのは、二つの声は全く同じ声色であったということだ。
(何者だ?)
 アヴェリーは蝿の陰で揺らめく赤い光を睨んだ。
 唸り声のように聞こえるその声は、低くくて強さがある。フィオメインの時は屈強な男を思い浮かべたが、改めて聞くと女の声のようにも聞きとれた。毒の入った果実を人に勧める老婆のような陰鬱さを秘めている。
「おい。どういうことだ?」
 ハーサットがアヴェリーを見た。
「死体がどうしてしゃべる?」
 ハーサットは大げさな身振りで訴えたが、それを知りたいのはアヴェリーの方だ。
「それは俺が聞きたい。魔物が人間の言葉をしゃべるのは、郊外では常識なのか?」
 二人の会話を遮るようにして、ヴェルゼルスの蝿が群れを成して飛び回る。所詮は群れた子虫であったが、蝿はどんどん数を増して侮れない勢いを生んだ。
「散ろう」
 アヴェリーが言い、二人は方々に避けた。
 無数の蝿が生む黒い奔流は、樹皮の堅いクロケアの大樹さえも簡単に傷つける。もし人が飲み込まれれば、皮膚は簡単に剥がされてしまうだろう。
「どうやら、俺たちはもう十分に奴を触発しちまったらしいな」
 逃げまどいながら合流した先でハーサットが言った。
 一つのところに留まろうとすれば、すぐに蝿の大群が押し寄せてくる。二人は離合集散しながら策を練った。
「アヴェリー」
 頭をかばって転げたハーサットが言う。
「アンデッドと戦ったことはあるか?」
「ない」
「そうか」
「お前は?」
「実は俺もない」
「……」
「ただ、火に弱いと聞いたことがある」
「火?」
 焚火は随分前に消えたままで、火を起こすには時間が要る。二人とも、火を起こす魔法など知るはずもないく、火打石の火花を散らしたところで何にもならないことは予想できる。
「無理だ」
 木の幹を盾にしつつアヴェリーが首を振ると、ハーサットが妙なこと言い出した。
「フィオメインの市場には……」
「市場?」
「火を起こす魔法の水が……」
「それは紛い物だ」
「売っていると聞いたが……」
「紛い物だよ」
「持っていたりしないのか?」
「紛い物だと言っているだろう!」
「じゃあ、どうする? 逃げるか?」
 ヴェルゼルスの様子を覗いたが、赤い瞳はしっかりとこちらに向けられている。
 この蝿竜は鍵を欲している。それも、フィオメインで遭遇したイミールと同じ声で。おそらく、この竜にも操魔の石が埋め込められていて、同じ術者が鍵を欲しているのだろう。
「いや、追われるだけだ。この魔物は鍵を探している。おそらく俺が標的なんだろう」
「そもそもよ、鍵って何の鍵だ? 家から締め出されでもしたのか?」
「さあな。よほど大事な鍵なんだろう」
 ハーサットの疑問に対する答えは知らない。何の鍵だが分からないが、アヴェリーに関わりがあることは確かなようだ。
「……やるしかないか」
 アヴェリーが考えを深める間に腹をくくったハーサットが言った。
「俺もお前も、元はハインの子狼だ。やってやれないことはない。そうだろ? アヴェリー」
 『ハインの子狼』は、国章に二匹の狼を飼うエネハインの騎士が己を鼓舞するために使う表現である。久しく聞いていない言葉を耳に拾いながら、アヴェリーは策を練った。
(ヴェルゼルスを操っているというのなら、術者は必ず近くにいるはずだ)
 動き続けているせいで体がほてり、懐のセオン紅石が熱を持っているのかは分からない。しかし、さっきの不可解な現象も何かの兆候だと考えると、近くで目を光らせている者がいるという推測は強引ではない気がした。
 その時、それを証拠づけるような視線がアヴェリーの背中を射抜いた。振り返った先には森の闇が続いているだけで、人影らしきものは見えなかったが、確かに誰かの視線だった。
「アヴェリー!」
 ハーサットの呼びかけがもう少し遅かったら、アヴェリーは蝿の群れに飲まれていただろう。聴覚が羽音で埋め尽くされる前に、アヴェリーは黒い奔流から脱した。やや逃げ遅れた右腕は鎖帷子さえズタズタになっている。どこから生じているのかは分からないが、先ほどより数を増しているようだった。こうなってくると逃げ回ってばかりはいられない。アイシノイが蝿に埋め尽くされるようなことはなくとも、この辺りが蝿だらけになる前に決着をつける必要がある。
 しかし、矢は有効に思えなかった。蝿の群れに打ち込んでもせいぜい数匹を叩き落とすにすぎず、血肉の腐ったヴェルゼルスの本体に効くとも思えない。火矢にするには、火も油も不足している。
(いや、まてよ。操魔の石なら……)
 必ずどこかに埋め込まれているはずだと、アヴェリーは考えた。
 本来その石を何処に埋め込むべきなのかという魔術の知識はない。だが、それがイミールの額にあったというのは、シフェルから聞いている。あの時と同じ術者だという仮定が正しいなら、イミールの戦いから得た知識は、今ここで使われるべきだろう。
 アヴェリーはヴェルゼルスに対して横に移動しながら弓を構え、蝿が通り過ぎるのを待ってから矢を射た。
 これ以上ないほど正確な軌道で放ったはずの矢は、無数の蝿が生む空気のうねりに阻害されて中空に外れた。
「俺がやろう!」
 その様を見た対面のハーサットが言った。
「どこだ? どこを狙えばいい?」
 手に持った諸刃の戦斧を振ってアヴェリーに仰ぐ。重量のある斧ならば、なるほど、蝿に邪魔されることはない。
「眉間だ! 眉間を狙え」
 言うや、ハーサットの斧が飛んでヴェルゼルスの眉間に命中した。
 しかし、ハーサットの斧は蝿竜の動きを止めたものの、倒すには至らず、先に地面に落ちたのは斧の方だった。
 ハーサットが唖然として、アヴェリーを見た。
「おい。弾かれたぞ」
「お前。腕が落ちたんじゃないか?」
「馬鹿をいえ。そんなにヒョロヒョロ飛んでいったか?」
「しかし、刺さってないじゃないか」
「……堅いんだよ、きっと」
 口々に言いながら、再び蝿との戦いになった。
「どうする、アヴェリー。らちがあかない」
「……矢を楔にして、眉間に打ち込むか」
「さっきは外れたぞ?」
「……今度は当てる」
 アヴェリーは矢筒を探り、中から鉄製の一本を取り出した。

続く