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リルジャの足枷

XXIV.闇の遭遇(4)

 木に比べて鉄の矢は距離で劣るが、威力で勝る。威力が上がれば蝿の起こす空気の流れをもろともせず、正確に眉間に届くだろう。少しでも矢じりが眉間に食い込めば、あとは釘を打つ要領でハーサットがとどめを刺してくれる。あれだけ近くで投げたハーサットの斧をはじいたとは言え、衝撃を一点に集中すれば、貫けるはずだ。
 アヴェリーは、鉄の矢に合わせるために弦を固く締め直しながら、矢の射程内で眉間を狙える場所を探した。ヴェルゼルスの動きは早くない。回り込みさえすればよいのだが、樹海の大地をうねる巨木とその根が邪魔をして、思うように動き回れなかった。
 二本の木を通り過ぎた所で、小さな広がりをみつけた。中心には朽ちた株がある。他と違って夜空を覗くことができる稀有な空間だったが、アヴェリーの眼を引いたのは夜空なんかではなかった。
(焚火?)
 目の前に火をくべた跡があった。人がいた証拠である。先ほどの視線は気のせいではなかったのだ。
 誰がそこに居たのか。気になりはしたが、戦いの最中で何度も自失してはいられない。アヴェリーはすぐにヴェルゼルスの位置を確認し、狙える場所を探した。株の上も含めた二三箇所を選定し、最終的に選んだのは巨木から生えた太い枝の上だった。
 弓を肩に担いで矢を口に挟んで一気に木を登り、ヴェルゼルスの眉間に的を絞る。射ようと思えばすぐに射ることはできたが、矢の角度に気を付けなければ、後からハーサットが打ち込むことができない。
「まだか! アヴェリー!」
 ハーサットが焦れる。
 アヴェリーは両足を枝に絡めると、弓を引いたまま枝にぶら下がり、逆さになった。
 木に登ったことでアヴェリーを見失ったのか、蝿はハーサットに集り始めている。
 この絶好機は見逃せない。
 弓を絞った右手を離すと、放たれた鉄の矢は風を引き裂いて飛び、彫刻家が堅木に立てるノミのように、ヴェルゼルスの眉間に立った。間髪を入れずに、ハーサットが蝿竜に飛び掛かる。全ての体重と魂を乗せたハインの子狼の一撃は、矢じりを伝わってヴェルゼルスの眉間を割った。
「うお」
 着地を考えていなかったハーサットはそのまま地面に落ち、続いてヴェルゼルスが子虫をまき散らしながら崩れ落ちた。巨木が切り倒されたような轟音が樹海に響き渡る。その音に驚くようにして、ペグラーサの胞子が舞いがった。
「死んだのか?」
「そうだな……。いや、こいつは最初から死んでいたが、動かなくなったのは確かだ」
 ヴェルゼルスの体は、なおも蝿に覆われている。先ほどと違うのは、それらが襲い掛かってくることはなく、虫の本能として屍に群がっているということだった。
 しばらく観察した後、どちらからともなく火を灯そうと言った。アンデッドに終わりがあるのかは良く分からない。蘇らないとも限らないし、操魔の石を取り出すには蝿が邪魔だった。
 二つの松明をから生じる煙に、ほとんどの蠅が飛び去って行った。露わになった血肉は、たった今殺したかのようにみずみずしい。ミイラのような干からびた物を想像していたアヴェリーは思わず身を引いた。
 冷静になってみれば、ヴェルゼルスのような大型の魔物は見るのも初めてである。六本足というのは耳にしていたが、よく見れば前と真ん中と後ろで形が違う。蝿竜という呼び名は生態から命名されたものかと思っていたが、足の骨格自体も巨大な虫のように見えた。
 松明を近づけたり、体躯をつついたりして様子を見たが、ヴェルゼルスが起き上がる気配はない。じっくりと胴体を観察することもできたが、骨身の飛び出た足をみるだけで十分に想像ができ、気が引けた。
「アヴェリー」
 囁くような声色でハーサットが呼んだ。
 振り返るとハーサットはナイフでヴェルゼルスの頭を引っ掻き回している。
「見てみろ」
 血まみれの手で、ハーサットが指さした。
「石が埋まってる」
 とても見る気にならなかったが、それを聞いて足が動いた。
「……セオン紅石?」
 血に塗れてそれは見た目で判断ができなかったが、取り出して血をふき取っても、なお赤い。形状こそ違うが、アヴェリーの懐にあるものと同じ石であった。
「どうだ? 同じ物か?」
「……そのようだ」
 持っていた紅石と比べると、大きさはほぼ同じである。
(やはりか)
 アヴェリーは心中で呟いた。
 操魔の石を考えた時点で、セオン紅石であることは想像に易かった。必ずしもそうとは限らなかったのだが、アヴェリーには確信に近いものがあった。術者が念を託した操魔の石が同じセオン紅石だったのだとしたら、ヴェルゼルスが現れる直前にアヴェリーの紅石が熱を帯びて『鍵を返せ』と言ったのも、術を傍受したと考えることができるからだ。現に、今アヴェリーの手のひらに載っている二つ目の紅石にも余熱がある。この熱こそが、魔物を操る根源に違いない。
「どうやら、お前の話は本当らしいな」
 ハーサットが立ち上がりながら言った。
「正直、イミールがしゃべったとか、あまりに創作的でな。半信半疑だった」
 悪く思わないでくれ、というハーサットを酷く思うことはなかった。聞いただけでは疑惑が残っても仕方ないだろう。さすがに目の前で起これば、疑う余地はない。
「いいよ。気にするな。俺自身、最初に話す気になれなかったのはそういう考えもあったからだ。説明したところで胡散臭い、とな」
 アヴェリーが言った。
「それで、どうなんだ? アヴェリー。手がかりは増えたか?」
「……どうかな」
 何か状況が変わったわけではない。ヴェルゼルスは鍵を求めてきたが、それはフィオメインのイミールも同じだった。紅石を媒介に魔物を操る謎の人物が鍵を探しているという事実は、今さらである。
 イミールの時と状況が異なるのは、今回は二人に鍵を求めたことである。イミールの時には、フィオメインのどこかに鍵があるのだと思っていたが、それは違うということだ。共通しているのはいずれもアヴェリーに対しての訴えだったということだが、あの時と今では所持品が全く異なるし、鍵などというものは持ってもいなかった。
「ハーサット。お前、鍵は持ってるか?」
 念のために聞いたみたが、ハーサットはすぐに首を振った。
「だいたい鍵って何の鍵だ? 部屋の鍵みたいな分かりやすいものじゃないんだろう?」
「だろうな」
 ハーサットの言葉には同意できた。紅石の持ち主は、そんなに単純な探し物をしているわけではないのだろう。イミールならまだしも、ヴェルゼルスのような大物を操って探すほどの物なのだ。おそらく、それは二人の知らない秘密が隠されたものに違いないだろう。
 結局、新しいセオン紅石の他に、この戦いがもたらしたものはなかった。アンデッドに対する経験を得たと言えば嘘ではないが、とりわけ望んでいたものではない。
「収穫なしだ」
 アヴェリーは二つの紅石を巾着に押し込んで、地面に突き立てていた松明を手に取った。振りまいた煙が話し込む間に霧消したためか、逃げ散っていた蝿が戻ってきている。
「こいつ、焼き払うか」
 ハーサットが進言した。死んだかどうかも分からないヴェルゼルスをそのままにしておくのは気が引けるのだろう。それはアヴェリーも同じだった。
「そうしよう」
 その言葉で、ヴェルゼルスの火葬が始めるはずだった。
 予想外の事態が起こったのは、ハーサットが原型のなくなったヴェルゼルスの頭部に火を近づけた瞬間だった。
「――――――!」
 ヴェルゼルスが突然首をもたげて吼えた。もはや形状が分からないが、口のようなものが大きく上下に割れ、その雄叫びは突風となってアイシノイを縦断した。
 松明の炎をかき消すほどの風だったが、不思議なことに音は全く聞こえなかった。人の耳には聞こえない類のものらしい。しかし、ハーサットの方を見ると、何やら口を動かしている。
「なんだ? ハーサット」
 何かの合図かと考えたが、様子がおかしかった。ハーサットだけでなく、自分の声も口の中にこもっているようで、鼓膜の外からは響いてこないのである。もう一度発声したところで、ようやく事態に気づいた。
 ヴェルゼルスの咆哮は、二人から音を奪ったのだ。

続く