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リルジャの足枷

XXV.闇の遭遇(5)

 音を失ったアヴェリーに向かって、再び蝿の群れが飛来する。
 先ほどまでは羽音を聞き分けることで飛び回る蝿の動きを読むことができたが、今は蝿を目で追う事しかできない。些細だがその差は大きかった。蝿の避け方が大がかりになってしまい、二人はそのぶんだけ余裕を失った。
 不利になったのはそれだけでは無い。ロカアシの樹皮を傷つけるだけだった蝿の奔流が、今度のは樹皮を溶かしている。いや、もっと正確には樹皮を腐らせていると言ったほうが間違いが少ない。アヴェリーが隙を見て放った木の矢が飛びながら朽ち果てるほど、空を行き交う黒い濁流が生気を吸い取っているのだ。
(この違いは何だ?)
 アヴェリーは現状を打破するための糸口を見つけるべく、必死に考えた。
 明らかにヴェルゼルスは操魔の石から解放された後の方が強くなっている。これは、死んだ後に操られて恐ろしい力を発揮したイミールの時とは、全く逆であった。
 操魔の術の知識は持っていないが、仮に施術者の力量を被術者に移すのだとしたら、操魔の術をかけた誰かは、イミールに対して力を与えることができたものの、ヴェルゼルスに対しては力を殺ぐことになってしまったということだろうか。そう考えると納得はできた。つまるところ、セオン紅石を取り除いた今のヴェルゼルスが本来の姿ということだ。
 アヴェリーの推理が合っているのかどうかは分からないが、今のヴェルゼルスが操魔の石と無関係に動いているということ確かに言える。この蝿竜が紅石の持ち主と無関係という事ならば、このまま無理に戦っても得るものはない。
 アヴェリーの意向は退散に変わった。
 逃げ回りながら観察していたが、ヴェルゼルスの動きは先ほどよりものろい。どうやら敏捷さに関しては本来の方が低かったらしい。レドベグがそろえた最低限の荷物が軽量だったこともあり、背負って逃げたとしても十分に逃げ切れる。
 ただ一つ厄介なのは、耳が聞こえないせいでハーサットとの意思疎通ができないことだ。
 ハーサットは両手に斧を持って奮起している。小型の魔物ならあっという間に両断してしまうほどの立ち回りで、重たい一撃を何度も何度もベルゼルスに当てているはずだが、ひとつも致命傷にを与えられていない。良く見てみると、ハーサットの一撃はヴェルゼルスの体を分断しているのだが、無数の蝿があっという間に傷を繋ぎ止めているのが分かる。
 ちくしょうめ、とハーサットが言ったのは大きな口の動きで分かった。
「ハーサット!」
 試しに思いっきり叫んだが、当人はこちらを見向きもしない。
 アヴェリーはため息一つで、ハーサットに向かって矢を射った。
 飛び回る蝿のおかげで、狙った場所よりもハーサットの顔面近くに飛んでいったが、そのおかけでハーサットの注意を引くことができた。ハーサットの口が「下手くそ」と動いたが構っている余裕はない。アヴェリーは体で逃げることを表現して、ハーサットに意志を伝えた。
 ハーサットはすぐに意味を理解したようで、斧を背にしまうと夜営した場所を目指して走った。アイシノイの旅路はまだまだある。こんな森で自給しながら動くのは考え物であり、ここで荷物を捨てて行くのは自殺行為と言えよう。
 ハーサットが荷を拾う間に、アヴェリーは蝿の竜を誘うように動いて、隙を見ては矢を射った。依然として蝿の動きは厄介だったが、時の経過とともに失われていた聴力も戻り、先ほどまでと同じように黒の奔流をやり過ごすことができるようになってきた。
 あとはヴェルゼルスをこの場に置き去りにして、逃げ出すだけだ。ヴェルゼルスの向こうに二人分の荷物を背負ったハーサットが見える。ハーサットの手には松明が握られていた。
「ハーサット。木を燃やすんだ!」
 炎で足止めするのが良策だと考えたアヴェリーが指示を出すと、ハーサットは松明の火を次々に樹木へ移して回った。
 苦手とする炎と煙に囲まれて、ヴェルゼルスがいななく。また耳をつぶされては困ると二人は耳を塞いだが、今度のはただの鳴き声だったらしい。初めて聞いたその声はただの暴れ馬の様であった。
 右往左往するヴェルゼルスを横目に、アヴェリーはハーサットと合流して逃げ道を選んだ。木々は相変わらず背が高く、今は上空が煙っていて星を見ることができない。仕方なく二人は、とりあえず距離を置けそうな道を選んだ。迷う可能性は十分にあるが、あとで星座の位置を吟味すれば何とかなるだろう。
 炎に照らされた森は赤みを帯びて、獣の体内を進むようであった。燃やした樹の熱がその獣の体温となって逃げる二人に追いすがるものの、振り返るとヴェルゼルスは火に囲まれてもがいている。
 逃げ切れた――。
 先を走るアヴェリーがわずかに笑みを浮かべてハーサットを振り返った時、予想もしなかった光景が目に入った。
 ヴェルゼルスの六本の足のうち、真ん中の二本が横に広がったのである。そして、その二本は大鷲の翼のように、上下に動き始めた。
「飛ぶ気か?」
 アヴェリーの視線に乗じて後ろを見たハーサットの声が裏返える。
「……そのようだ」
 速度こそ出ていないが、ヴェルゼルスの巨体がゆっくりと上昇している。
「野郎、どこにいく?」
「こっちだろう。逃げるようには見えない」
 アヴェリーが言うそばから、ヴェルゼルスの顔がこちらを向いた。
「……しつこいな」
「……どうやら、俺たちは逆鱗に触れたらしい」
 一度は頭を砕いたのだ。当たり前と言われればそうである。しかし、だからと言って竜の怒りに向き合う必要はない。
「とにかく逃げるぞ」
 アヴェリーがそう言った瞬間、再びヴェルゼルスが吼えた。
「――!」
 先ほどよりもずっと大きな衝撃が森を切り裂き、ロカアシの木々がなぎ倒されていく。二人は吹き飛ばされ、とっさに耳を塞いだにもかかわらず、またもや音を失った。
 今度は音ばかりではない。鼓膜を貫いたその波動は、強烈な耳鳴りとともに平衡感覚を失わせ、胃の底から酸が溢れかえるような嘔吐を催した二人は地面を転げ回るのを余儀なくされた。アヴェリーもハーサットも態勢を整えることに苦慮し、周りの木々や己の獲物を支えにしながら立ち上がっては、木の根がもたらす地面の起伏に躓いて転げた。
「くっ」
 自らのうめき声も口の奥で反響してわずらわしいほどだ。
 どうにか天地を把握するころには、ヴェルゼルスと蝿の群れは頭上にまで飛来していた。
 一つの方向性を持って飛び回っていた蝿の群れが、今度はペグラーサの胞子のように舞い散ってアヴェリーの体にまとわりついてくる。死者の遣いともいうべきその子虫は、やがてアヴェリーの装甲を溶かし始めた。
 生物を生きたまま取り込むというのは、唯一知られているヴェルゼルスの生態である。蝿は腐敗の激しいヴェルゼルスの体に群がっているだけだと思っていたが、今自分に起こっていることを見れば蝿が捕食の手助けをしているのは明らかだ。動きが緩慢になった人間を狙っているのか、体にまとわりつく蝿が一匹二匹と増えていく。
 アヴェリーは地面を転がって蝿を払いつつ、とにかく逃げることを考えた。
 森はいまだに暗く、転げまわったせいで方角が分からない。荷物はすぐにとれるところに落ちているが、それにこだわってはいられないだろう。付きまとう蝿やヴェルゼルスに対抗するのになにか役立つ物はないかと辺りを見回したが、発想を得られる物はない。アヴェリーは樹の幹を頼りに立ち上がることに専念した。
 アヴェリーよりもハーサットの方が肉体的に優れているのか、あるいは聴覚的に鈍感なのかは分からないが、先に立ったのはハーサットだった。
 見上げるとハーサットの口が自分の名前を叫んでいる。
 地に下りたヴェルゼルスは、顔をつぶしたせいで何処に目があるのか分からない。視線は判別できなかったが、地面をはい回る動きを見ているのか、体についた蝿の数をみているのか、どちらにせよヴェルゼルスの目標はアヴェリーに定まっているようで、ゆっくりと体をこちらに向けた。
 アヴェリーが立ち上がるより早く、ヴェルゼルスが後ろ足と翼で立ち上がった。腹から蝿の群れが伸びてきて、アヴェリーに迫る。両手で振り払って蝿まみれの触手と格闘するも、抵抗むなしく手足を掴まれた。
 蝿に直接触れた右腕が焼ける様に痛み、抵抗するそばから無数の蝿が圧倒してくる。やがて見た目からは想像できないような力に引き上げられて、アヴェリーの体は宙に浮いた。
 足が地面を離れ、冷や汗が浮き上がる。アヴェリーの瞳に映ったのは、ヴェルゼルスの腹に空いた巨大な口だった。
(くそ!)
 喰われる。
 そう思った時に目の前を斧が遮った。ハーサットが投げた戦斧だった。斧はつむじをまとって飛び、蝿の触手を分断した。手足に絡まっていた蝿は一瞬にして弾け、アヴェリーの体は宙に投げ出された。

続く