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リルジャの足枷

XXVI.闇の遭遇(6)

「しっかりしろ!」
 地面に転げ落ちたアヴェリーの担ぎ起こそうとしたハーサットだが、ヴェルゼルスの触手がすぐにハーサットの足を掴んできた。
 ハーサットが手斧で応戦するものの、数匹の蝿を殺すにとどまり、奇妙な触手を断つことができない。音のない世界で続くヴェルゼルスとハーサットの攻防は、咆哮のせいで動きに緩慢さが残るハーサットの方が分が悪く、徐々にだが確実に追い詰められている。
 目の前で苦戦する親友を助けようにもアヴェリーの体には感覚が戻らない。もがくうちにハーサットの体はヴェルゼルスに持ち上げられた。
「ハーサット!」
 這いつくばったまま手を伸ばしても、空すらつかめず、アヴェリーは名を叫ぶしかできなかった。
 アヴェリーよりもずっと重装備で決して軽くは無いハーサットの体が宙を漂い、ゆっくりと腐った体躯に埋もれていく。
「くそっ!」
 何か手はないかと掴んだのは、一本の矢であった。しかし弓を構えるような姿勢はとれない。
 アヴェリーは矢を自分の足に突き立てて、痛覚で五感を呼び覚ますと、一気呵成に地面を蹴ってヴェルゼルスにぶら下がるハーサットにしがみついた。
 二人の体重で腐った体躯から引き剥がせるかと思っていたのだが、ハーサットの体はヴェルゼルスに喰い込んで、なかなか離れない。アヴェリーはハーサットの肩を掴んだまま体を反転させ、沼にはまった人を助ける要領で力をこめた。
 踵でヴェルゼルスの腹を踏み込むと、固くも柔らかくもない奇妙な感覚が膝から伝わってくる。ハーサットの体は少しだけ浮き上がったが、全身は抜けきらない。
『逃げろ』
 ハーサットの口がそう言っている。
「そんなことできるか」
 放っておけばハーサットはヴェルゼルスの糧になる。
『馬鹿やろう!』
「黙っていろ」
 アヴェリーは思いっきり腰に力を入れて踏ん張った。すると、鈍い音を立ててヴェルゼルスの腹が裂けた。蝿竜のどこかの骨が砕けたようではあるが、苦しむような様は見られない。それどころか、アヴェリーの足は蝿の中に食い込んで、アヴェリーの体も沈み始めた。二人の体は天地が逆さの蟻地獄に飲まれるようだ。
 気が付けばヴェルゼルスは飛び立ちはじめて、地上との距離がひろがりつつある。一矢を報いるために腰の剣を引き抜こうにも、半ば飲み込まれた鞘は傾けることができない。
「アヴェリー! 歯を喰いしばれ!」
 あがくアヴェリーに向けて、ハーサットが叫んだ。
 わずかに鼓膜に響いた声に振り返ると、ハーサットの右手には拳が握られている。
 ハーサットは躊躇いも無くアヴェリーの顔面を撃った。至近距離からの一撃はすさまじい衝撃を伴い、アヴェリーの体はヴェルゼルスの束縛を脱して宙に浮いた。
 アヴェリーを待っていたのは、落下よりも先の欠神だった。意識を失った体は無抵抗のまま樹海の地面に落ちた。
 右拳の痛みと引き換えに満足を得て、ハーサットは苦笑した。体にはまだ痛みがないものの、蝿に埋もれた首の下からは金属の溶ける匂いがする。右ひじでどんなに抵抗しても、もはや体は固定されてしまった。最期には血肉が焼かれ、ヴェルゼルスの糧になるのだろう。
 地面は着地できないほど頭上だ。地上では太くたくましく感じていたロカアシの幹が、徐々に徐々に細くなっていく。眼下では真っ暗な空がハーサットを迎えていた。
(終わりか……)
 観念して目を瞑ろうとしたと時に、木々の間に人影が見えた。助けを得たいがための幻覚かと思ったが、まだ意識はそれほど虚ろではない。
(誰だ?)
 アヴェリーではなかった。頭からフードをかぶったその男はアヴェリーよりもはるかに長身である。
(いや、誰でもいい)
「おい! 助けてくれ!!」
 ハーサットが精一杯に叫ぶと、フードの男は蝙蝠のように枝伝いに接近してきた。
「あんたは……」
 フードの中身は見知らぬ顔だった。しかし、外套の奥から包帯にまかれた左腕が現れた時、その男が誰であるかを語っていた。
(ラスタニアの……!)
「後悔するなよ、ハインの子犬」
 グレナード・ラスタニアがフードの下で含み笑いをしながら、装飾用とも見て取れるような大きな剣を取り出す。地鳴りのような風がこれから起こる事を予期させるようにしてグレナードに集まり、左腕の包帯がはためいた。
 ハーサットの心中が期待と恐れを抱いたその時、フードの奥で鋭い眼光を放ったグレナードがゆっくりと口を開いた。
『呪われしベイレオハルトよ――
 彼の魔物を祟りて堕とせ――』
 剣の鞘から黒い靄が浮き上がり、得体の知れない黒い波動が一挙にハーサットへと押し寄せる。黒い紙にインクを走らせるような光景なのに、なぜか眩い。波動は目を細めたハーサットに至る寸前で裂け、ヴェルゼルスの四肢と翼を貫いた。
 断末魔とはまさにこのことだろう。蝿纏う翼竜の鈍い唸り声が樹海にに響き渡った。
 闇の波動によってヴェルゼルスの体が弾け飛んだわけではないが、腐肉と蝿で出来た体は空中で散り散りになり、ハーサットもろともに落下した。
 ハーサットは成すすべもなくヴェルゼルスとともに地面にたたきつけられた。骨を折らずにすんだのは、無数の蝿と腐肉と軟土の賜物だった。得体のしれない酸を受けた鎧は穴だらけで、今の衝撃によって半分近く崩れ落ちてしまった。個所によってはいまだに煙が上がっている。
 あと少し遅かったら、と顧みればヒヤリしたが、死なずに済んだだけに危機感よりも安堵が勝って、ハーサットは深呼吸した。
 ハーサットの真横に落ちたヴェルゼルスは蝿を失った瞬間に溶け始め、今や白骨の身になっている。今度ばかりは蘇りそうになかった。あれほど力強かった眼は骸骨から覗く穴でしかない。あれほど飛んでいたの蝿もどこへやらだ。
 数匹の蝿を追って空を見上げると、降りてきたグレナードと目が合った。
「……今のは何だ?」
 ハーサットが問うと、グレナードは嫌な顔をした。
「……エネハインは、礼を言う前に質問をする文化なのか?
 だとすれば、滅びたのも納得だ」
 ハーサットには目の覚める嫌味だった。
 たった今、ハーサットは祖国を滅ぼしたかもしれない男に命を救われたのだ。グレナードが最初に後悔するなと釘を刺した意味を知り、ハーサットは唇をかんだ。
 礼を言ってみろと言わんばかりに視線が上から注がれる。背丈の変わらない相手にそのような印象を持つのは、見せつけられた力量の差によるものだけではないだろう。立場のまずさが多分にそうさせている。
「……感謝する」
 一度は睨み返した視線を切って、ハーサットは言い捨てた。
「ふん」
 二人の間に愛想などあろうはずもなかった。互いの口から漏れた舌打ちすら重なりはしない。警戒の入り混じった疑心だけがそこにあった。
 ハーサットにとってグレナードという男は未知の存在である。
 エネハイン滅亡当日に城にいたかは不確かだが、近くに居たことは間違いが無い。そして、フェリオ公が死に際に口にした以上、何らかの関わりを持つ者としての地位はゆるぎないものだ。だが、知りえているのはそこまでである。ハーサットが他に知っているのは、容姿のことだけだ。
「……」
 二人が初めて共有したのは沈黙だった。それも、互いに槍を着き付けあっているかのように痺れる沈黙である。
 ハーサットは率直に何を握っているのか聞きたかった。ついさっき、目の前で蝿の竜を一撃のもとに殺めた光景がなかったら、あるいは聞くことができたのかもしれない。
 グレナードは納剣したままの剣でヴェルゼルスの死骸を漁りはじめた。その剣を見た時、ハーサットの脳裏に剣が発した黒い波動がよみがえった。
「その剣は何だ?」
 グレナードはすぐには応えなかった。聴こえなかったかのように死骸を漁り続け、ヴェルゼルスの頭蓋骨がごろごろと地面を回る。やがてヴェルゼルスの眼窩が四方を見回した後で、グレナードが言った。
「ベイレオハルトだ」
「……聞かない名前だな。あの黒いのは何だ? 魔法か?」
「魔法?」
 グレナードが苦々しく言う。
「そんな安全なものだと良いがな。こいつは呪われているのさ」
「呪われて……? どういうことだ?」
「質問が多いな、ハインの子犬。お前が聞きたいことはそんなことか?
 率直に聞いたらどうだ。俺がエネハインを滅ぼしたのかどうかを。
 それとも、所詮、犬には勇気が無いか?」
 的を得た言い分であっただけに、むかっ腹が立った。ハーサットが睨むと、グレナードは心地よく受け止めるような顔つきをした。
「聞けば、答えるというのか?」
「さて。内容による。
 もっとも、力づくで聞こうというなら、応じてやっても良いが?」
 そう言うとグレナードは剣の鞘を足で蹴り上げ、そのまま肩に担いで構えた。
「どうする? 犬」

続く