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リルジャの足枷

XXIX.老人と魔女

『夢の旧約を持ち去るのは無理だろう』
 アウベス・エル・ドニアムが言った。冷徹に、と付け加えた方がよいかもしれない。アウベスの長いまばたきによって、二人は道が閉ざされたような気分になった。
『一体何故です?』
 納得ができない、と食い下がったのはシフェルだった。
『夢の旧約を持ち出さなければ、計画が頓挫してしまいます』
『いや、アウベス殿の仰るとおりかもしれません』
 そう言ったのはミアスである。
『何を言うんだ、お前まで……』
 シフェルがミアスを睨んだ。
『兄上。既に、夢の旧約はこれから生まれてくる王女に与えられる王家の証と公言されています。我々が持ち去れば、盗難にあった事を明るみに出さざるを得ません。それはつまり、王家が我々を盗賊として追い詰める理由ができることに他ならないのです』
『……なるほど』
 シフェルが苦い顔をした。
 持ち出せば危険が及ぶ。その言葉にはシフェルも異論はなかった。しかし――
『それでは、旧約の力でで封印を保つという計画は?』
『解っておる』
 アウベスは黙り込んだ。
 シフェルは後ろ髪を引っ掻き回し、落ち着きなくうろついている。
 ミアスはほかに術がないかを考え、アウベスの最初の言葉を思い返した。
 夢を操る力で、悪しき精神体を夢の世界に閉じ込めるというのが、夢の旧約を狙うことになったきっかけだった。しかし、人の成長やその日の経験によって姿を変える夢を封印の鍵とするのは、あまりに脆く、恒久的に鍵を付け直す必要があると、アウベスは説いた。そのために、シフェルたちはフィオメイン王家の財宝ともいえる夢の旧約を盗み出そうとしていたのである。
 夢の旧約を持ち逃げできないとなれば、何か別の鍵を用意しなければならないだろうが、ミアスには旧約に変わる代案など用意できるはずもなかった。
『……術がないわけではない』
 ミアスが考え込んでいると、アウベスが言った。
『それは、どのような?』
『……夢の旧約で鍵をかけ、時の旧約で永遠にするのだ』
『時の旧約?』
『さよう』
『そのようなことが可能なのですか?』
『不可能ではない。
 ただ、この世に存在する全ての旧約の中で、時の旧約は最も世界に影響を及ぼすものだ。人を殺すことも甦らせることも、あるいは不死とすることも可能になろう。人ばかりではない。国や種族、あるいは大陸、さらには、神さえも呼び戻す力があると言われている。
 しかし、強大な力を扱うものは代償を払う。代償とは、自身の時。すなわち――』
 命。
 アウベスのその言葉を聞いたのは間違いなく暗室であった。眼球に触れたかような闇の暗さを恐れたのは、後にも先にもその時だけだ。
『命……』
 シフェルもミアスも何と返してよいのか分からなくなった。
 中央に置かれた一本の蝋燭に灯る火が、三人の呼気に合わせて揺らいだ。シフェルの額には数多の汗が浮かんで、そのひとつひとつに反射する無数の灯りがミアスの目に映る。
 誰もが喋ろうとしない中であっても、ミアスにはシフェルの考えていることが手に取るように分かった。
 誰が時の旧約を扱い、その命を犠牲にするのかを考えているのだ。
 シフェル自身が、その大役に挙手をすることは簡単だろう。兄に覚悟があることは疑う余地もない。最愛の人間を犠牲にしてまで成し遂げようとしている計画のなかで、己の寿命の一つや二つ、今さら天秤に乗せるまでもないはずだ。
 だが、シフェルにそうさせない理由があることもミアスには分かっていた。
『私が担います』
 ミアスが手を挙げた。シフェルにできないことを第三者であるアウベスに委ねるわけにはいかない。鑑みれば、全ての責任は事を言い出したミアス自身にもあるのだ。
『ミアス……。いいのか?』
『兄さんはもう一人の王女とともにフィオメインに残る手筈。国を出て安全なところへ身を潜めるのは私の役目です。選択肢は他にありません。時を操るのが咎だというのなら、私が負います』
 唇を噛み締めるその兄を見て、ミアス自身もいつのまにかこぶしに汗を溜めていた。
『単純ではないぞ?』
 シフェルと同じ視線をアウベスからも浴びて、ミアスはうなずいた。
 ミアスが決断した瞬間に教会の屋根に刺さった十字に雷が落ち、三人の顔が雷光に照った。暗闇に浮かんだシフェルの顔は苦渋にあふれていた。
 
 ミアスは今と夢の狭間で過去を見ていた。
 強まる雨足があの日を思い出させ、いつまでたっても忘れることができない光景を当時と寸分たがわぬように再現させるのだ。世の中にとってはそれが一昔前の出来事であっても、ミアスには大昔のように感じた。手相が皺へと変っていく有様を、十六年という年月に納めるには短すぎる。
 カタン――。
 たった今、ミアスの耳を小さな物音が衝き、彼の壮大な回想はその小さな音で終えることになった。
 目覚めたのはベッドの上ではなく、背もたれすらない椅子の上であった。両腕で抱えた一本の杖が体を支えている。
 ミアスは静かに立ち上がると、ゆっくりと扉へ近づいた。部屋を出る扉ではなく、リーニスの部屋に繋がる扉であった。鍵穴からそっと覗き込むと、窓から外を眺めるリーニスの姿が伺い知れた。
 深夜はとうに過ぎている。就寝後に目覚めた様にも見えるが、そうではないことをミアスは知っている。リーニスの体は宙に浮いていた。だらりと垂れた手足は、体が眠っているという証拠だった。
(やはり)
 夢の旧約による封印が解けかかっている。
(ハディアめ。独力で封印を解き始めたか……)
 深呼吸のあとで、ミアスは手に握りこんだ杖を見た。
『愚かしい真似は止めよ――』
 どこからともなく老婆の声がした。
 ミアスの初めて聞く声ではない。長い間苦しめられてきた声である。悪寒を覚えたミアスはとっさに扉を離れ、唾を飲んだ。
「ハディアよ。おとなしく寝ていてくれぬか」
『その言葉はお前に返そう。老い先短いお前にな』
 ミアスは立ち上がり、部屋に踏み込んだ。開け放たれた窓と扉をつないだ風が、ミアスとリーニスとの視線をもつなぐ。
 リーニスの瞳は人間味を宿していない。人を見下した魔女の冷たい視線だ。瞳はおろか顔色すら、生身の人間とは思えないほど色が無く、凍りついた花のように蒼い。
「王女が眠っている時にしか起きれぬお前に何ができる」
『……試そうか?』
 今度はリーニスの口を使って、ハディアが語る。
『カレトヴィアの肉から生まれたこの力が、今の世にどれほど蘇ったか、お前の体で試そうか?』
 リーニスの両目が開き、それぞれが独立して動く。焦点がミアスに定まった時には、瞳孔は赤くなり魔性の気を帯びていた。
 ミアスはすぐさま杖を構えた。
「その前にお前を夢の中に送り返してくれる」
『得意の旧約か?』
 リーニスの口が横に広がった。ハディアが不気味に笑っている。
『時の杖を遣い、夢の旧約で我に施した封印の力を取り戻そうという考えは見事なものだ。しかし、旧約を遣えば遣うほど、お前の体は老いていく。こんな真似が、あと何回できる?
 お前はとっくに気づいているはずだ。お前の寿命とともに旧約の力が尽き、我がこの娘の体を奪うのは時の問題じゃと』
「……そうであっても、お前の隙にはさせぬ」
『ふん。今のうちにせいぜい吼えるがよい。我がこの娘の魂を屠る時が来れば、もはや旧約などでは取り戻せぬ。もっとも、その頃にはお前は死んでいるがな』
 あっははは。
 ハディアは声あげて笑った。若々しいリーニスの顔から漏れる老婆の笑い声は、虫唾の走るものだった。
「消えよ」
 杖を翳して古の呪文を口にすると、扉から風が吹き込んでミアスの背中を強く押した。時の杖の真価を呼び覚ますにつれて、頭皮にすがりついていた白い頭髪が抜け、何本も宙を舞う。やがてリーニスの額が青白く光り、王女の髪を束ねていた紐が弾けた。
 部屋中に響き渡っていた魔女の笑い声は失せた。
 ミアスは、邪気にあふれていたリーニスの瞳が閉ざされるのを見るや、杖を放り出して走り寄ったが、足がもつれ、最後には体を放り出してリーニスの体を支えた。
「リーニス様」
 囁くように呼びかけると、寝息が返った。
「ふう」
 ミアスは安堵の息を吐いて、リーニスをベッドに乗せた。
 しばらくの間、ミアスは立てなかった。風邪をこじらせて高熱を出した時の様に体が重い。節ひとつ動かすのが辛いと感じるのは進行した老いのせいだろう。しわがれた額には汗ひとつなく、あるのは、抜けた白い毛髪だけだ。
(やれやれ)
 何とか立ち上がったものの、今までよりも更に杖が必要な体になっている。ミアスは半ば這いつくばって杖を拾にいくと、皺の増えたその手でつかみ取った。
  こんな真似が、あと何回できる――?
 ふいに魔女の声が聴こえ、ミアスは振り返った。ベッドの上のリーニスは健やかな寝息を立てている。
 幻聴か、本物か。いずれにしてもミアスには酷な言葉であった。時間があまり残されていないことは、杖に伝わる手の震えが物語っていた。

続く