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リルジャの足枷

XXX.古都へ(1)

 その部屋の暗さは心の暗さとも言えた。ひとえに、閉塞感のもたらす灰色の焦燥が根底にあるせいだろう。焦燥から生まれるのは視野を遮る煙だけであり、そこに希望の火が灯ることはないと理解するほど彼女は理知的ではなかったが、目の前でゆらめく蝋燭の火も、ため息ひとつでかき消されてしまうようで、力不足だった。
 今、一本の蝋燭が人の手によって動かされた。目の前に近づいた蝋の匂いに交じって、香の匂いが漂い始める。嗅ぎなれたそれは、安らぎをもたらす香りだ。未来へ希望を託すよりも確実な、頼れる人がいるいう安ぎである。人に甘んじてはいけないという思いがあっても、今に限ってはそうしたくもあるのは、彼女の心中が不安で満たされているからだ。
 ノールーの前に座ったのはアウベスだった。フィオメイン領の小さな街に建てられた古い教会の暗室でのことである。
「ノールー・エンゲスだね?」
 アウベスの目がほほ笑んだ。その瞳にほっとするのは、昔可愛がってくれた叔父の目に似ているからだろう。父と母から虐待を受けるたびに叔父のところに逃げ込んではその瞳に迎えられた、幼少の頃の記録とつながっているのだ。
「はい」
 ノールーは笑顔になった。
 月の一度よりも少ない回数で、しかも、その間にアウベスは何万人といわれるディアクク会の会員に会っているというのに、名前を間違えられたことは無い。いつも通りのその一言がとても嬉しかった。
「なにか、あったかな?」
 少しの間ノールーを顔を見つめた後、アウベスが神妙な顔つきになった。
「……分かり、ますか?」
「フィオメインを離れて、わざわざ私に会いに来るとは、非常の事態以外にありえないよ」
 アウベスはにわかに笑うと、話してごらんとノールーを促した。
「実は、フィルの様子が変なんです」
「フィル? フィルとは、フィルクスのことかな。フィーレ家の」
「はい。ただ、今はレブナンです」
 アウベスは、そうであったと言って苦笑した。
 この時、アウベスがフィルクスとノールーの関係を図ったことをノールーは知る由もない。
「それで、フィルクスが変だとは、どういうことかな?」
「話しかけても返事もしないんです。まるで聞こえていないみたい」
「いつからかな?」
「最後にちゃんと話したのは、この前の、フィオメインの月例会が中止になったときです」
 月例会の中止から十日を経ている。ノールーはフィルクスとその間会話を交わしていないと説明した。
 今までにそうしたことはあったのかと聞かれたが、即座に首を振って否定する。ノールーの頭の中には。どんな話でもきちんと聞いてくれるフィルクスしかいない。もちろん内容によっては聞かなかった振りすることはあっても、ノールーの言葉を最後まで無視することはなかったし、あとで必ず何かしらの反応をくれたものだった。
「何か、思い当たる節はあるのかな?」
「……節、ですか?」
 ノールーは考え込んだ。前回の月例会の日に市場の中央にある広場で話した時のことは良く覚えているが、そのときはおかしな素振りはなかった。苦笑いもするし嘆きもする普通のフィルクスであった。シフェルが死んだ直後で表情は悲しげであったが、それは異常な反応ではない。
「そうだ」
 フィルクスの顔を思い浮かべた時に、思い当ったことがあった。
「アウベス様。目です」
「目?」
「はい。目がおかしいのです。四六時中、なんだか輝いていて」
 アウベスは首をかしげた。
「……喜ばしいことがあった、そういう事かな?」
 ノールーは首を振った。
「そうではありません。私は、その、比ゆ的なことを言おうとしているのではなくて、見た目に、普通の人の眼ではないのです」
 アウベスの首はかしいだままだ。ノールーは自分の言わんとしていることがいかに珍妙であるかを察し、上手く伝えられるか不安になった。
 その不安に、アウベスは笑顔で答えた。
「人の眼ではないということは、……獣の様という事かな?」
「いえ、何と言いましょう……。あっ、そうです」
 フィルクスの眼は色を誤った絵画のような、人為的に塗られた眼だとノールーは言った。
「……」
 アウベスは黙った。ノールーの発言に言葉を失っているようには見えなかった。初めて口にする食材を深く味わうかのような表情である。
「アウベス様。どうされました?」
 フィルクスに対して良くない印象を持たれたのか、不安になったノールーはアウベスを気遣った。
「ああ。すまない」
「いえ。あの……、なにか悪いことが?」
「ふむ。単刀直入に言えば、フィルクスは光に毒されているようだ」
「光に?」
「そう。強すぎる光を浴びた者に起こる症状だよ」
「……あの、どういうことでしょうか?」
 ノールーはアウベスの言っていることを理解できず、改めて聞いた。
「人間は、かつて洞窟で暮らし、夜に狩猟をして暮らしていたと云われている。そんな人間にとって、陽の光は強すぎる。今では廃れたが、ラトディアの古き法には六月の間中、陽に晒すという量刑があったほどだ。人間にとって、害のない光とは灯なのだよ」
「では、フィルは、太陽を見すぎたのでしょうか?」
 アウベスは微笑んだ。
「いや、たとえが悪かったかな。確かに陽の光は、時に人を失明させる。しかし、どんなに陽の光にあたりすぎても、瞳が変色することはないだろう」
「それでは……」
「おそらくだが、フィルクスは光を使った何かの術を施されているようだ」
「……」
 ノールーは言葉を失った。
「どうにかなりませんでしょうか?」
 やっと言葉にできたのはそれだけだった。
「まずは術者を突き止めなければならない。最近、フィルクスの周りに現れた者はいるかな?」
 頭のなかを駆け廻らせたが、それらしい人物は浮かんでこなかった。フィルクスが監視院に見張られるようになってから、一人でいる時以外は接触を絶っていたせいである。
「……すみません」
「ノールー。詫びることではない。仕方のないことだ。悪意が無いことを詫びてはいけない」
 私の方でも探りを入れてみよう、とアウベスは言った。
「では、お願いします」
 ノールーの声は上ずっていた。思わず口から漏れ出た歓喜であったが、自分でも恥ずかしいぐらいだった。まだ何も解決したわけではないが、アウベスが動く以上、何かしらのよい結果を得られるという期待がある。
「ただしだ。ノールー」
 アウベスが指を立てて言った。
「この件は私に任せて、しばらくはフィルクスに近づかないようにしておくれ」
「なぜでしょうか?」
「フィルクスは王家筋の親衛騎士隊に属している。その彼が何かに巻き込まれているとしたら、おそらくは国家に関わる大切なことだろう。
 それに対し、君は素人だ。強力な武器や魔法を扱えるわけではない。分かるね。危険なんだ。だから、しばらくは関わりを持とうとしないことを約束してほしい」
「それは嫌です!」
 アウベスがノールーに注いだ熱視線はあっさりと交わされた。
「……近くに王女様がフィオメインを離れると聞きました。どこか、遠い国の祭典に出席するためだって」
「ふむ」
「いやな予感がするんです。フィルは、帰ってこないんじゃないか、と……」
「ノールー」
 アウベスが椅子から身を乗り出して呼びかける。
「不安を抱えている時は、悪い予感ばかりするものだ」
「……私の予感。外れたことが無いんです」
 ノールーが涙ながらに訴えると、アウベスが顔を覗き込んで言った。
「いいかな、ノールー。
 君の言う祭典というのは、『聖なる禊の祭典』だ」
「……聖なる禊?」
「パレグレオ大公国が雨季に入ったあとに執り行われる緑の祭典のことを言う。
 大公国までは道にして、ひと月といったところかな。それほど遠くはない隣国だ。フィオメインと大公国が戦になることはまずないし、フィルクス一人でもない。親衛隊として王女をお護りするだけのこと。公路を往復する疲れはあろうが、命の危険にさらされるようなことはあるまい」
「……でも」
 青ざめた顔で食い下がるノールーに、アウベスは微笑んだ。
「ノールー。私は祭典が好きでね。祭典の主賓ではないが、見に行こうとは思っている。そんなに不安なら、君も来るかい?」
 便乗したい気持ちはあったが、義兄の顔が浮かび、即答しかねた。日中は義兄の店を手伝うのが、ノールーの日課である。今回は無理を言って郊外の小さな街まで運んでもらえたが、二月もの間フィオメインを離れるなどと言えば、大反対を食らうだろう。もちろん、それを分かってのアウベスの誘いであった。
「そうだろう。君には君の務めがある。それを大事になさい。
 フィルクスは私が責任を持って連れ帰る。それで良いかな?」
「はい!」
 期待していた言葉を得たノールーの返事は、威勢よく暗室を飛び出していき、そのすぐ後にノールー自身も暗室を出て行った。

続く