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リルジャの足枷

XXXVI.双子の王女(5)

『アヴェリー』
 微かな声がアヴェリーの耳に届いた。眠りについてからどれほどの時間が経ったのかは知らない。外はいまだに雨音で満ちている。アヴェリーは薄目を開けて周囲を見た。見たというより眺めたと言った方が適切だろう。焦点は何処にも定まっていない。空耳だと気づく間もなくアヴェリーの目は瞼の重みに負け、視界は再び黒く翻った。
『アヴェリー』
 夢かと思った時に、もう一度同じ声が響いた。老婆の声である。イミールとヴェルゼルスから聞こえたその声は忘れられるはずもない。アヴェリーの意識は、水底から引き上げられるようにして目覚めた。
『鍵を渡せ』
 老婆が言った。
(なんの鍵だというのだ)
『お前がフィオメインから持ち出した物があるだろう』
 老婆の声がアヴェリーの疑問に答えた。声に出したわけではないというのに、老婆の声との問答が成立している。一瞬頭が白くなったが、もしかするとこれは好機かもしれない。いまなら老婆の正体を掴めるのではないか。そう考えたが、それはあっさり見抜かれた。
『ふふふ。我の正体が知りたいか? それはいずれ知るだろう。
 そんなことよりも、鍵を渡すんだ』
 どうやら、知恵を働かせることはできない状況らしい。おそらくこの考えも読まれているのだろう。とすれば、大人なしく問いに応じるしかないという事だ。しかし、渡せと言われても、アヴェリーがフィオメインから持ち出したのは、身の回りの物とセオン紅石しかない。
(……セオン紅石を返せというのか?)
『私が仕向けた傀儡の石などに興味があるはずがないだろう。私が欲しいのは、旧約だよ。私を閉じ込めた忌々しい呪いを解く鍵さ。お前は知らずに持っているのかい?』
(旧約? 何を言っている)
『知らないというなら、もうよい。お前が持っていることに違いはないんだ。その部屋から、旧約の波動を感じるのだからね。お前を殺して奪ってくれる――』
 老婆の声がそう響いたかと思うと、打って変わって静かになった。何事もなかったかのように雨音が耳に戻る。夢だと分かって安堵した瞬間、暗闇の中から腕が生えて、アヴェリー胸部を鷲掴みにした。
(――!)
 朽木のような腕なのに、おそろしく頑丈だった。一瞬にして肋骨を引き剥がされ、心臓をわしづかみにされたような錯覚を覚える。ベッドから一歩も出ていないのに、顔を水面に押し付けられたかのごとく呼吸が苦しくなった。抵抗しているつもりだが、なぜか手足が妙に重たい。老婆の手中に握りこまれた心臓は今にも潰されてしまいそうだ。血液が静脈をさかのぼり、こめかみに加わった圧力で眼窩から血が吹き出しかけている。
(こんな事があるはずがない。これは夢だ!)
 アヴェリーは決死の力を振り絞って老婆の指を一つずつ剥がしながら、強く願った。
 
 目を開けると仄暗い中に白い天井が見えた。眠りに落ちる直前まで見ていた光景である。だが、雨がさざ波のように窓に打ちつけているのは、老婆と戦った夢の中と変わらない。額を拳で小突くと、ごつという音とともに痛みが走った。どうやら現実の世界に戻れたようである。いつの間にか右手に握った巾着には手の汗が染みこんでいて、かいた汗の分だけカラカラに渇いた喉が意識をいっそうに呼び覚ましてくれた。
 隣のハーサットはまだ夢の中にいる。寝苦しいのか寝返りを打ってばかりで、その度に鼾の音域が変わった。そういえばハーサットは、夜営の方が良く眠れると言っていた。
 友の変わった習性に苦笑しながら、アヴェリーは台所に向かった。アインガストの夜は建物中が湿っぽい。水を飲んで戻るまでの間に汗にまみれた服が渇くかどうか、怪しいところだ。
(何処で名前を?)
 コップに水を注ぎながら考えたのは、老婆がいつアヴェリーの名前を知りえたのかという事である。フィオメインでもアイシノイでも、遭遇した時に名前などは呼ばなかった。それまではアヴェリーの名を知らなかったのだと考えるのが自然だ。樹海での出来事からひと月。名前を明かしたのは指折り数えるほどで、すぐに挙げることができる。村で出会った農家。そして、ミアスと、リーニス。三人だけだ。そして、その中に老婆はいない。農夫は老齢だが、妻は早くに病気で亡くしたと聞いている。年齢に目をつぶっても三人の中に、老婆と同じ声色の人間はない。性別ではリーニスしか、あてはまる人間はいないが――
『アヴェリー』
 思考を遮るようにして、再び声が聴こえた。直接鼓膜に響き渡るような声だ。堅い食物を咀嚼したかのように、喉の奥で音を感じる。
 辺りを見回したが、魔物の気配はなかった。寝室からハーサットの鼾が聴こえているということは、安全なのだろう。今度のものは幻聴かと思ったが、その声がもう一度聞こえ、一気に緊張が走った。今のはいままでよりずっと強い声だった。側頭部が割れる様に痛い。だが、その強さがはっきりと示している。今度の声は老婆ではなく、若々しくて優しい声であることを。
(この声は、どこかで……)
 動揺が邪魔をして、すぐに思い出せない。気持ちを落ち着かせるために一息に水を飲むと、頭の中に光景が蘇った。
 リーニス様だ――。
 そう思った時に、上の階で床を踏む音が聞こえた。アヴェリーは急いで部屋に戻ると弓を通り越して剣を腰に収め、階段に向かった。
 屋根から滴る雨粒が、静寂に楔(くさび)を打っている。タン――、タン――というその短い音はアヴェリーの足音と重なり、やがて心拍に変わっていく。背後を埋める階下の暗がりに押されるようにして、アヴェリーは階段を上った。
 階上では、雨雲の向こうから届く月明かりが、ぼんやりと扉を浮かび上がらせていた。その情景を見て、アヴェリーは初めて扉の上に天窓が張られていることに気がついた。さっきは緊張のせいで周りを見る余裕がなかったが、今は周りを見ざるをえない緊迫がある。少量の雨が天窓を小刻みに叩き、雨粒はそこで高低のある二つの音を生んでいた。
 扉を目の前にして、アヴェリーは固まった。手を伸ばせばすぐのところに取っ手があるのに、腕が体にくっついて離れようとしない。自分でも不思議なぐらいに体が委縮している。その気になれば引き返すこともできる。しかし、未だに残る頭痛がそうさせない。リーニスは、間違いなく呼んでいるのだ。所用ではなく、助けを求めている。理屈では上手く表せないが、シフェルなら騎士の勘と表現するだろうものが、そう告げているのだ。
 アヴェリーは体を壁に這わせて扉に近づいた。壁と扉の隙間から、異質な空気が漏れている。静かに腰を下ろして鍵穴から中をのぞくと、リーニスはベッドの上で横になっていた。
『アヴェリー』
 もはや幻聴ではないことは、疑う余地もない。頭痛は一層強まるばかりだ。ただ、鍵穴の奥に眠る姫君は微動だにしなかった。
(……リーニス様?)
 痛みの激しい側頭部を抑えながら問い掛けたが、返事はない。しばらくすると頭痛が止み、再び声が語りかかてきた。
『アヴェリー。早く旧約を我に――』
 老婆の声に戻っていた。
(中にいる――)
 アヴェリーは取っ手に手をかけた。中に踏み込み、声の正体をこの目で確かめるつもりであった。しかし、扉と壁に一筋の隙間ができた時、アヴェリーの手に何かが乗った。前にも見た、一本の杖である。
「ミアス殿」
 根元をミアスが握っていた。真一文に結んだ口をして、老人は首を横に振っている。ただの木の杖がやけに重く感じられた。
「いけません」
 ミアスは静かに言い、アヴェリーの手を扉から話させた。
『ふん。老いぼれめ』
 老婆の声はそこで途絶えた。
「ミアス殿」
 アヴェリーが呼びかけると、ミアスは深くうなずいて、分かっていますと言った。
「もう少し後にしようと思っていましたが、殊の外、事態は悪いようです」
 その口調はもはや、老人のそれではなかった。リーニスと面会した後で、人を頼っているのは私の方だと言った時の、容姿からは想像できないしゃべり口である。
「お伝しましょう。あなたをアインガストへ招いた本当の理由を」
 ミアスはもう一度頷いて、床においたランタンを手に取った。ランタンを持って下から上がったきた様子だが、いったいどのあたりから異変に気づいていたのか。少し気にはなったが、そんなことはどうでも良かった。アインガストへ招いたというのであれば、シフェルも関与しているという事だ。それがどういう意味をもつのか。それとリーニスの、老婆の声がどうかかわってくるのか。弱い月光を浴びる扉をみて、アヴェリーは思った。自身の本能は正しかった。この扉はどこか別のところに通じている。心して踏み入れなければなるまい。

続く