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リルジャの足枷

XLI.双子の王女(10)

 密室の扉を開けたアヴェリーを待っていたのは、ハーサットであった。目を閉じて俯いているが、寝相が悪くてここまで来たわけではないようだ。ハーサットはじろりとアヴェリーを見た。睨んでいるようにも見えた。
「そんなところで何をしているんだ?」
 訊いたそばから白々しいと思った。ミアスとアヴェリーの話を聞いていたに決まっている。だとすれば、仲間外れにされたと機嫌を損ねたのだろうか。しかし、ハーサットはこれからエネハインへ帰る身だ。自ら関わり合いになる必要がない。それに、よく見るとハーサットは旅装束だった。
「……もう行くのか?」
 ハーサットは無言で顔を上げた。だが、アヴェリーが視野に入っていないかのように、部屋の中を見た。何ともいえない不穏な空気がそこにあった。
「悪いな」
 ようやく示した反応で、ハーサットは謝罪の言葉を述べた。
「いや、急ぐなら引き留めはしない。しかし、なにもこんな夜中に……」
「そうじゃないんだ」
 アヴェリーは言い終わらないうちに、いきなり胸倉をつかまれて部屋に押し込まれた。ハーサットの突然の横暴で扉にぶつかり、古い木造の枠が歪む。
「どういうことだ?」
 転びかけながらもどうにか立ち直して、詰問したもののハーサットの眼中にアヴェリーはいなかった。ハーサットは扉の前に立ちふさがって、威嚇するようにミアスを見下ろしている。二人の間に入る余地はなく、部屋は二人の物になっていた。
「話は聞かせてもらったよ、爺さん」
 ハーサットが言う。
「耳飾りというのはこれのことだな?」
 肉刺(まめ)だらけで不格好なハーサットの手に不釣り合いな銀飾の耳飾りが乗っかっている。
「……ええ」
「そうか」
 ハーサットは荒く鼻息を吹いた。
「残念だが、渡せない」
 アヴェリーにはその言葉の意味が理解できなかった。人間の世界には存在しない言葉を聞かされたような気分だ。
(何を言っているんだ?)
 言いかけたが、言葉にはならなかった。部屋は静けさに飲まれている。
「どういうことでしょう?」
 やがて、ミアスが口を開いた。
「言葉の通りさ」
 ミアスとハーサットの視線が交錯する。割って入る余地がない。ハーサットは意図的にアヴェリーを無視している様子で、アヴェリーの存在は外の雨よりも希薄だった。
 ゆっくりとした動作でミアスが杖を握った。立ち聞きしていたハーサットは、その行動が持つ意味を理解しているはずが、指先一つ動かそうとはしない。今の段階では一触即発にはならないことを確信する老練の獣のように、じっくりとミアスの行動を見ている。それはミアスにも言えた。
「何をお考えです?」
「さてな。俺はただの小間使いだ。爺さんの親しい、ディアクク会の連中に聞いてみた方がいい」
「……夢の旧約が無ければハディアの復活を招くことになる。それを会が望んでいると?」
「いや、会もそれは望んでいないようだ」
 ハーサットが天井を見上げた。緊迫にうんざりしたようでいて、違った。ハーサットの焦点は、部屋に蓋をしている薄暗い板の向こうにあるのだ。
「もし、爺さんが抵抗したら、連中はリーニスを殺すと言っていた。
 けったいな魔女の復活を望むなら、そうはしない」
「……なるほど。つまり、リーニスの命か、その耳飾りか。どちらかを選べと」
 ハーサットは答えなかったが、ミアスには十分だった。答えの要らない問いだった。アヴェリーの横で、ミアスは黙った。
 十六年前の話はついさっきミアスから聞かされたところだが、アヴェリーにはこのやり取りの意味するところが理解できない。ディアクク会とミアスの間にある骨子というべき物事を深く知るには足りず、口を挟める状態になかった。他人事のような物言いをするハーサットも同じなのだろう。滑舌の悪い老人の話し声が扉越しにどこまで聴こえたのかは知らないが、恐らくアヴェリーよりも背景を理解できなかったはずだ。ちらりとハーサットの顔色を窺ったが、苦悩するミアスに対して、やはり傍観者である。
 アヴェリーにはそれが隙に見えた。ハーサットを押しのけてリーニスを救出すれば、風向きは良くなるのではないか、と考えはしたものの、まったくの丸腰である。寝室で眠っている剣も弓も、起こしに行く余裕はない。首尾よく上に上がったところで、複数人が襲撃してくれば万事休すだ。それに、親友を相手に戦えるだろうか。アヴェリーはハーサットがなぜこのような行動に出たのかを知らない。「悪い」と言ったハーサットの言葉が反芻する。詫びながら行動する背景を聴きもせずに交戦するほど、二人のつながりは希薄ではなかった。これはアヴェリーにとって、恩人をとるか親友をとるかという選択でもある。
 アヴェリーの思考が行き詰った時、ついにミアスが杖を置いた。
「わかりました」
 夢の旧約を持っていきなさい。ミアスは口にせずにそう言った。リーニスの命を優先するのだ。
「邪魔したな、爺さん」
 ハーサットは借金を回収した金貸しのように素っ気なく部屋を出た。アヴェリーには一瞥もくれなかった。
「アヴェリー。追ってはいけない」
 ミアスは制したが、アヴェリーはそれを無視してハーサットを追った。部屋の一部と化していた自責の念からではない。後先のことは、考えていなかった。義務に近い私情だけが、アヴェリーを動かした。
 夜の視界は雨の幕が幾重にも重なって、暗色に染めた絹の旗が翻るようだ。遠雷が北の空で蠢き、黒い空に引き寄せられるようにして吹く風がとぐろ巻く。風圧のさざ波に足を取られて、アヴェリーはふらついた。ハーサットは騎兵に並走する歩兵のごとく早足で歩いている。追いつこうと思えば可能な速さだが、それが返って追いついてはいけない速さだとアヴェリーに悟らせた。
「気付かなければよかった」
 アヴェリーが後ろに着いたことに気づいて、ハーサットが言い出した。
「お前の巾着に耳飾りが隠されていることに気付かなければ、こんなことにはならなかった」
「いつ気付いたんだ?」
「ヴェルゼルスとの戦いで、お前が気を失った時だ」
「……あの時から狙っていたのか?」
「まさか。あの時は知らなかったよ。
 知ったのは、お前が服を仕立てている間だ。やつらと接触した。そして、聞かされた。王女の耳飾りが盗まれたことを」
「お前はいつからディアクク会の手先になったのだ?」
「手先になどなっていないさ」
「じゃあ、なぜ従う?」
 ハーサットの足が止まり、アヴェリーもその場に留まった。
「アヴェリー。王族が消え、貴族も民衆も、罪人さえもごちゃごちゃになったエネハインを支えたのは何だと思う?」
 謎かけの様にハーサットが言った。
 考えもしなかったことだ。ハーサット自身、エネハインの様子を語った時にはそんな話をしていなかった。だからアヴェリーは民衆の力で立て直したと思っていた。しかし、そんなに甘いものではなかったという事なのだろうか。
「宗教だよ」
 ハーサットが待たずに続ける。
「奴らは巧妙に生活の隙間に入り込みやがった。今や、ディアクク会無くして、エネハインの平穏が成り立たない。安心と信仰が常に隣り合わせになってやがる。どこに行くにも、何をするにも付きまとうのさ。影なんてもんじゃない。足枷だよ。黙っていれば重いだけだが、下手に逆らおうものなら怪我をする」
 ハーサットが嘘をつくのが下手な人間であることは百も承知だ。耳飾りの事を聞かされ、心当りを問われた時に誤魔化せなかったにちがいない。その時はまだ、アヴェリーが耳飾りを運んでいる理由も知らない。そうした背景も相まって、ハーサットはアイシノイで見たままを正直に話したのだろう。彼らがエネハインの民にはめた足枷には刺がついているのだ。
「許せ、アヴェリー。俺はしょうもない男だ。老い先短いお袋はまだしも、妹には子供がいる。いずれ義弟を連れ帰り、エネハインで平穏に暮らしたい。会には逆らえないんだよ」
 短文を並べ連ねて独白するハーサットに、返す言葉はなかった。咎める気にはなれないし、許すというのも傲慢な気がする。
「すまん」
 ハーサットはもう一度詫びると、別れの言葉も言わずに去っていった。アヴェリーもそれ以上は追うのをやめた。後ろ姿のハーサットは懺悔する咎人のように小さく、黒い景色に消えていった。
 遠雷が瞬き続けている。飛び出てきたアヴェリーはずぶ濡れになっていた。心の寒さを雨のせいにすることができたが、それもどこか虚しい。気力という言葉が自分の中で音を立てて崩れていくのが分かる。アヴェリーはその残骸を引きずって戻った。
 ミアスは部屋から一歩も動かずに居た。自らが机の上に置いた時の旧約を無言で見つめている。時の精霊と会話しているように見えた。すぐに杖をとって時間を戻そうとしなかったのは、献上する寿命が尽きかけていることを示しているからだ。窓にあたる雨を一瞬だけ戻すのと、この騒動に関わった全ての者たちを戻すのでは、負担が違う。
「ミアス殿」
 アヴェリーが呼びかけるとミアスは顔を上げた。思いのほか柔らかな表情だったが、アヴェリーの目には怖くも映った。この顛末すらも予想していたというのであれば、目の前にいるこの老人は計り知れない策士だ。だが、そうではないようだった。
「また、考え直しです」
 ミアスは席を立って、ランタン持ち上げた。ランタンの火が揺れたのは、風の流れか、老人の手の震えか。いずれにせよ、火種は大きく揺ぎ、後に雷鳴が続いた。

続く