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リルジャの足枷

XLII.ラスタニア

 生まれ育った屋敷に異変を感じたのは、二つ目の扉を開いた時だった。普段と何かが変わっていたわけではない。図ったように直角に敷かれた絨毯も窓の縁取りを彩る装飾も、燭台に刺さった蝋燭の高ささえも、普段通りの光景だ。唯一違ったのは、その場に漂う空気であった。
「父上?」
 ラスタニアの第二王子は声を上げた。赤子の産声のように何かを求めるその声はまっすぐに回廊を突き進み、やがて跳ね返されて戻ってきた。凛とした空気が屋敷に張り詰めている。グレナードは半ば身構えて、そのまま廊下を進んだ。
 陽が落ちたのは随分前のことだ。白銀の月が回廊を蒼く照らして、柱の根元から伸びる影が月光と織り合って黒と藍色の縞をなしている。山肌を撫でる夜半の空気が外套を冷ややかに触って揺らした。ラスタニアの民が『竜の目覚め』と呼ぶその風は機の移ろいを告げる報せであり、その時のように竜が向かって来るような風が吹いた時は負への転機、つまり悪しき兆候だと伝わえられていた。
 風土に触れれば、古き民の大陸ラトディアに最も近接しているカーナロキアに触れるようにして存在していたのがラスタニアであった。その歴史は古く、遡ろうとすること自体が愚かだとも言われる。紙よりもインクよりも前から存在していて、ロキアンたちが起こしたレフェス史には最初から登場する。集落としての起こりは更に古い。ターニアと呼ばれる吉兆星が一年を通じてみることができたと謂われる天衝山があり、天頂を目指す占星術者たちの足がかりとして生まれた集落がそれであったとされる。ラスタニアとは『ターニアの標』を意味し、最初は国の名前というよりも集落をまとめる賢者の称号だった。
 そのラスタニアにおける王とは集落の長に過ぎず、どちらかと言えば、ラスタニアを名乗ることが許された人間にすぎない。その名誉ある名を授かる機会を平等に与えるため、選出王制が採られていた。十二年に一度、三十六から五十九歳までの識者を集めて王を選ぶ。王のための神殿はあるが王宮はなく、役目のためであっても神殿に泊まり込むことは、王権に対する執着を表すことであって美しくないこととされていた。
 この当時、グレナードの父であるオライン王は三十八歳。第二王子と呼ばれていたグレナードが成人を迎えるのはまだまだ先であったが、成人しても権力はなく、修学のために登山と下山を繰り返していた実兄シュアンのように、いずれは統治者になるための知識を身に着けていくことを周囲に求められていた。
 四階まである屋敷の地上階を一周したが、父の姿は見当たらなかった。深夜前のこの刻限に書斎にいないというのは、グレナードの最初の勘が当たっていることを示している。
 帰っていないとすれば、食事だろう。こんな時間まで続くのは珍しいが、あり得ないことではない。グレナードはそう考えながらホールへ戻り、外套を脱いで掛けようとした。だが、そこにはすでにオラインの外套が掛かっていた。背に入っている刺繍は王にのみ与えられる特別な紋様で無二のものだ。そしてもう一つ、鴉の羽根を煎じて染めたような色をした外套があった。丈はオラインの物より長く、擦って歩いているか、裾が解れてぼろぼろになっている。シュアンの物でないことはすぐに分かった。正義の戦士のごとく穢れを知らない兄が、こんな悪趣味な外套を身に纏うはずはない。
 鴉色の外套を手に取った時、ホールを見下ろす吹き抜けの上に誰かがいることに気づいた。
(誰だ?)
 男はまっすぐに此方を見下ろしている。歳は兄と同じかそれよりも少し上だろうか。長く伸びた髪は襟首を通り過ぎ、背後に消えている。無精に生やした髭で白い顔が一層青く見えた。
「誰だ!」
 グレナードが声を上げた次の瞬間、男は背後に立っていた。振り向くよりも早く、男はグレナードの頭髪をつかみ腕を絞った。焦点がぶれるほど間近でにやりと笑った男の左目が黄金色に輝いていた。
「グレン!」
 男の腕を振りほどけずに足掻いていると、声が降り注いだ。先ほどまで男が立っていたところにシュアンが立っている。
「兄上!」
 ホールへ飛び降りたシュアンはどこか不格好だった。その理由に気づいたのは、兄が左手で剣を構えた時である。利き腕である兄の右手が、肘までを残して無かった。着地の衝撃で腕からボタボタと血が滴った。
 危険な目をした男は、グレナードを盾にして鼻で笑った。
「健気だな、シュアン。お前が守りたいのは弟か? それともラスタニアの秘宝か?」
「どちらもだ!」
 シュアンは男に向かって一気に加速した。しかし、バランスを失った体は正確性をなくし、男に闘牛のようにいなされて、床に転げた。男はなおも笑い続けている。
「無駄なことだ。すでに秘法は我が手中にある。そして、もうすぐこの国は山肌ごと滑落して谷に消える。希望の星も照らさない久遠の谷底にな。分かるか? もう手遅れなのだよ」
 立ち上がろうとするシュアンを蹴り上げ、男はグレナードを振り向いた。
「ラスタニアの小倅。悔いて死ね。この国に生まれたことをな――」
 先を言えば、それがグレナードとフェリオ・エネハインの最初の接触だった。もっとも、その時には名前など知る余裕はなく、初めて経験する身の危険にただ怯えるしかなかった。
 フェリオは蝋燭の火が消える様にして、目の前から姿を消した。グレナードの眼から、男の残像が消えた時、あわせたようにして大地が揺れ始めた。
 シュアンが仰向けに倒れたまま呼んでいる。右腕の出血がひどいのか、顔面は蒼白だ。
「父上は?」
「亡くなられた。……すまないが、私ももう、長くはない。
 だが、悲しみに暮れる暇はないぞ、グレン。これから話すことをよく聞け」
 虚ろに開いた兄の眼にグレナードの顔が映る。
「この国には秘密裏に所持していた物がある。あの男が秘法と呼んだものだ。本当は宝などではない。悪魔の結晶だ。人と魔族の戦いで倒した魔竜を元に邪神崇拝の国が精製した魔性の結晶石なのだ。
 父上は王になる前に結晶石がラスタニアにあるという俗説を耳にしていた。そして、事実を確かめるべく王になり、文献をさかのぼった。その結果、今から五十年以上前の先々のラスタニア王の時代にエネハインと交わした密約があることを知った。結晶石のエネハインに譲与したことを示すものだった。本当だとすればそれは大変なことだ。父上は先代たちの過ちを正すためにエネハインへ文書を送ったのだが、……先ほど神殿で亡くなられていた。おそらく、先の男の仕業だろう。何者かは知らぬが、エネハインの手の者に違いあるまい」
 そこまで言うと、シュアンは吐血した。近づいて良く見ると、胸部が血で染まっている。
「兄上……?」
「かまうな、グレン」
 痛みを隠すような顔をして、シュアンは続ける。
「結晶石は、欠片との血の契約により本来の姿に戻る。還元と呼ばれるものだ。恐らく、エネハインは一族の血を持ってそれをするつもりだ。持ち去られてより数十年。どれほどの人間が血の契約を結んだことかはわからないが、あまり時間は残されていないはずだ。
 もし、それが実現すれば間違いなくレフェスの危機になる。結晶石は、ヴェルグールという巨大な蝿竜から生成されたそうだ。山のような大きさがあって繁殖力が強く、周囲を腐敗させる力を持つ。ひと月もすれば、レフェス全土を埋め尽くすほどになり、大地は腐り、人の大陸は魔竜の大陸になってしまう。お前は、それを止めるのだ」
「どうやって?」
「……ヴェルグールの復活は止められないかもしれない。還元が始まれば、時間を先延ばしにしようとも、いずれ果たされる。やるとすれば、魔竜を倒すことだ。我々が敵う相手ではないが、アンクレット・アークの力を借りれば、きっとできるはずだ」
「どこに行けばいい?」
「伝説を辿れ。足枷の神はその先に居る。ただ、生身では駄目だ。神と会話する力がいる。まずは、ベイレオハルトの剣を探すんだ」
 シュアンは手招きし、近づいたグレナードの額に触れた。
「私と、父上の知識をお前に委ねる」
 体温のない兄の手が柔らかに光り、グレナードの脳裏に様々な情報が流れ込んでくる。シュアンは微笑こそすれ、焦点はもはや定まっていなかった。失神しかけたまま、懸命に術を施そうとしている。
「グレン。一人も王に候補しなかった場合、どうなるか知っているか?」
 グレナードは首を横に振った。
 兄は笑って、その答えを弟の頭に流した。
 選出の掟には、例外がある。候補者がいない場合には、後継者が引き継ぐというものだ。父の後継者はお前しかない。グレナード・ラスタニア。お前だけが頼りだ――。

 今に戻って、グレナードはフィオメインの王宮に潜入していた。レメティアの塔に上るために必要なシラク、つまり旧約を国庫から盗み出すためであった。
 今さら過去のことを思い出したのは、決して哀愁に浸っていたからではない。深夜だというのに衛兵すら立っていない王宮を歩くうちに、あの夜のことを思い出したのである。
 王直属の人間たちが他国の祭典に出席するために国を出ているのは、グレナードも知っていることだが、留守を守るべき人間たちまで見当たらないのは不思議だった。緊張と抱き合わせの思考を張り巡らせているが、罠とは考えられない。フィオメインにとってグレナードは警戒される人物ではないのだし、忍び込んだ盗賊に罠を張るほど暇な国ではないだろう。
 それよりも気になるのは城の様子よりもグレナード自身の勘である。ラスタニアは、あの日を最後に深い谷底に消えてしまった。長い歴史とは裏腹に暁の明星のごとく静かに消えたのだ。その時と同じ悪寒ともいうべき虫の報せをそのままにしておくのは愚かしく感じた。この先にはあの夜に匹敵する何かが隠されているに違いないという確信がある。セオン紅石がこの街に運ばれてきたことも立派な根拠だ。エネハインに戻るはずだった紅石が、エネハインを訪れる予定のないグレナードの手に渡ることを拒まなかった。あの時の遣い走りの女が何を思ったのかは分からないが、紅石を持って逃げずに置いていったという事実は、石がグレナードを選んだという事でもある。還元を先延ばしにするため、旅すがらで紅石をばら撒いてきたが、どうやら時は待ってくれないらしい。
(それにしても、還元の地はエネハインではなかったのか……?)
 だとすれば、フェリオもここに現れるはずだ。フェリオがセオン紅石と切っても切れない関係にあることは、グレナードがよく分かっている。ラスタニアにあった魔性の結晶石をセオン紅母石として世にばら撒いた男が、黙った姿を消すはずがない。
 ついに来たか――。
 グレナードは決意にも似た感覚を抱いたまま城内を進んでいった。

続く