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リルジャの足枷

XLIII.禊(1)

 嵐のような夜のあとには戦のような朝が待ち受けていた。祭典を祝う空砲は曇天を貫くだけでは気がすまなかったらしく、アヴェリーの鼓膜をも撃ち抜いた。アヴェリーを起こしたその空砲は、実のところ朝ではなく昼前のものだった。聞き逃すほどに眠り込んでいたはずなのに瞼は重い。
 体を起こして伸びをするまでは昨日の出来事も前向きに考えようと思っていたのだが、横に並んだ空のベッドを見た途端に何かに打ちのめされた気分になった。アヴェリーはため息を飲み込んで立ち上がった。
「遅いお目覚めで」
 台所のミアスは根菜を握っていた。机に並べてある三人分の食器を見て、昨晩のリーニスを思い出した。
「リーニス様は?」
「眠っています」
 老人は淡々としていた。呆けて昨日のことを忘れてしまったのように見えて、アヴェリーは一瞬かける言葉に悩んだ。
「……大事ないのですか?」
「ええ」
 あれはまだ良い方だと言った。昨日のことは事実としてミアスの頭にあるらしい。良くも悪くも残酷だが、抹消されていないだけまともだ。アヴェリー自身、ミアスに聞かせたい話ではないのだから。
 ミアスは、ハディアの意識が目覚めてもリーニスの体がベッドの上にあるうちは何も起きないと付け加えた。手を打たなければならないのは、ハディアが体を操るようになった時だそうだ。
 アヴェリーは頷いて腰を下ろした。目の前に昼食が並ぶまで、それほどかからなかった。ミアスの体を気遣い、リーニスに運ぶ役割を担おうと申し出たが、ミアスは首を振って断った。リーニスにとっては客人に過ぎないアヴェリーに任せるわけにはいかないのだ、と世話役は語った。ミアスが上り下りをする間は、食卓に昼食が並ぶのよりも長く感じた。
 アインガストに至るまでに世話になった農夫が雨季の走りだと言ったとおり、今日の空には一割もないものの晴れ間が見えている。窓に付着した今朝の雨粒が入り込む光を散らし、古びた家屋のガラスがやけに高価に映る。この機会を逃すまいと中空を行き来してさえずる小鳥たち反して、二人の昼餉は少しも麗らかではなかった。並んでいる食材が質素なのが拍車をかけているのかもしれない。穀物を咀嚼し、スープをすする音だけが台所を埋めている。
「私には、リーニスに手をかけることなどできはしない」
 寝言のように前触れもなくミアスが言った。
「兄の子でもあり、私が育てた子でもある」
 アヴェリーは手を止めてミアスの話を聞いていたが、あまり耳には残らなかった。正直、ミアス本人に気を取られていた。ミアスはおそらく自覚していないのだろう。若者言葉になってしまうと言っている自分のしゃべり口が、老人のぼやきの様になっていることに。口調はどんなに若くとも、会話の息遣いは年老いた農夫のそれと同じだ。この一晩の間に、ミアスは何十歳も年老いたようにも思える。体の老化と脳の老化は別々に訪れるのかもしれない。そんな問答を押し広げていたせいで、アヴェリーの耳に残ったのは最後の一言だけだった。
「私にはできない……」
 嘆きを残してミアスは黙った。アヴェリーは返事もできずにフォークを動かし、昼を進めた。また食卓の音が部屋を埋める。並べられた皿が大方空になったところで、視線に気づいて顔を上げると、ミアスがまっすぐに見ていた。
「アヴェリー。もし今すぐに、リーニス様を殺してくださいと頼んだら、貴方はどうします?」
 いきなりのそれは口に含んだものを吹き出すような問題で、アヴェリーはジャガイモを噛まないまま飲み込んだ。
「……無理です」
 食道にゴロゴロとした違和感を残したまま、拒否した。ミアスは小刻みに頷く。
 リーニスは普通の人間と変わりない。アウベスの施術により健常な人間とは違う生まれ方としたとしても、心のある少女であることは確かだ。昨日、初めて顔を合わせた時の威厳と稚拙が混在した空気は、人以外に出せないものであろう。確かに忌むべき力を持った危険な人物なのかもしれないが、何のためらいもなく殺すのは人道に反する。
 アヴェリーがそう語ると、ミアスの振動は下を向いたまま固まった。
「では、エリニスを殺せと言ったら?」
 顔を上げた老人の眼が狼のような殺気を放ち、アヴェリーの心臓を掴む。
 できるのだろうか――。
 親衛騎士隊の結成から六年。シフェルを筆頭に見守り続けてきたのがエリニス王女だ。シフェルにとっては偽りの責務であったとしても、エネハインにすべてを置いてきたアヴェリーにとっては生きがいと言って過言ではなかったことである。その過去を全て裏切る行動を選べるのか。仮にそれがレフェスを救うための策だとしても、二つ返事で選べるわけがない。
「……」
 アヴェリーは何も言えなくなった。
「でしょうね」
 ミアスの目は元に戻っていた。そう答えることを見越していたのだろう。
 正直なところ、できるかぎり手を下したくないのが本心だ。無責任なようだが、他人の手に委ねられるのであれば、それほど楽なことはない。結果を受け止める覚悟さえ据わっていれば、迷いながら剣を振う必要はなくなる。もし、エリニスの命を委ねるとしたら誰なのだろう。そう考えると、気になりはじめた。
「……ミアス殿。ディアクク会の狙いは、何だと考えていますか?」
 一度はシフェルとミアスに協力してハディアの誕生を阻止しながら、今度はミアスの前に立ちはだかった。会の行動に一貫性があるとは思えない。スタインバードでレドベグを捕まえて聞いた時に、ディアクク会に関する噂はいくつか耳にしていたが、今直面していっそうに本質が分からなくなっている。ミアスの邪魔をし、ハーサットが嫌々従うディアクク会の目的は何なのか。
「さて」
 ミアスは小首を傾げた。
「私が聞いた限り、会に一貫性はありません。何故なら、彼らは修行路一帯に広がっています。その頂に、アウベス・エル・ドニアムという者が座っていますが、アウベス殿が会を統率しているとは聞いたことがありません」
「名前だけ、と?」
「いえ。実態はあるでしょう。修業路を行脚しながら布教しているとは、どこでも聞く話です。しかし、それは統率と呼びません。アウベス殿の見えないところで動く者たちもきっと多い。大きな組織とは、得てしてそういうものです」
「では、夢の旧約をハーサットに盗ませたのは……」
「アウベス殿ではないと思っています。アウベス殿だ考えるには、この回りくどいやり口を説明してもらわなければならない。ロアンナ様の子を助けたいなどと言った我々の願いを取り下げて、母子もろとも殺していればよかっただけの話ですから。今さら気が変わったというのも馬鹿げています」
 動いているのは、人間味のない冷徹な宗教家たちだ、とミアスは言った。ハディアの精神を人間の魂の奥に封印するのでは甘い。肉体も魂もともに滅するべきだ。肉体が残れば血が遺る。魂が残れば知が遺る。完全にハディアを滅ばすには、その両方を滅ぼさねばならない。
「私が最初にロアンナ様のを生かしたいと述べた時、彼らはそう言って反対し、赤子を殺すように言いました。私からすれば、酷い考えの持ち主たちですが、世界からすれば酷いのは、身内の紡いだ命と世界を秤にかけている私なのかもしれません」
 身内の紡いだ命。ミアスはシフェルとロアンナの子をそう呼んだ。リーニスに対するあまりの執着に、本当はミアスとロアンナの子なのではないかと、一瞬とは言えど酷いことを考えたものだが、その言葉が自然と出てきているようなら、それは言葉の通りなのだろう。己の寿命をささげて少女を守るミアスの言葉を、今さら疑う気にはなれなかった。きっと、シフェルが両親の話をしなかった理由はミアスにも通じ、二人の絆の強さに通じているのだ。
「私は、どちらも同じだと思います。身近な人を守ろうということは同じです」
 リーニスと世界が秤の両端にいるのではない。本質はリーニスと誰かの子だ。どちらにも傾くはずがない。それが命の重みという、人が生まれながらに持つ誰にとっても等価な代物だ。
 そう答えながら、アヴェリーは自分の心に覚悟が生まれるのを感じた。エリニスという造られた偶像を殺す覚悟である。魂のない人造の人形に秤に乗る資格は無い。その人形が生きとし生けるものに害を成すというのであれば、個の思い入れはどうであれ、滅ぼすべきだろう。それが正義というものだ。
(エリニスを殺すというのであれば、それはむしろ俺がやるべきことなんだ――)
 アヴェリーは、その決意が冷めないうちに無言でスープをすすった。
 食事を終えて部屋に戻ったアヴェリーは、とりわけやることもなくベッドに横になって考えた。
 エリニスを亡き者にしたところで、リーニスの中の魔女はどうするのか。ミアスの様子をまじまじと観察していたわけではないが、昼食の準備と片づけの様子で分かったのは、これ以上その寿命を捧げるのは無理だという事である。一度の使用でどれほどの歳を犠牲にするのか分からないが、既にミアスの体は老いを受け入れられていない。先の昼食で一枚の皿を割ったのだが、その皿を棄てた篭には数十枚の皿が割れて入っていた。割れた皿など溜める価値はない。ここ数日の間に、それだけ割ったということだ。ミアスにこれ以上の負担を掛けずに、ハディアの封印を保つ方法はあるのだろうか。
 アヴェリーは考えに詰まって外に出た。一時の青空を過ぎて、空は再び灰色の雨雲に閉鎖されようとしている。銀貨を払って手に入れた服を試すにはちょうど良い空模様だ。
 ミアスに断りを入れて出かけた散歩は、取り留めのないものになった。仕立てた服のおかげで周囲から浮いて見えることはなかったが、アヴェリーにとってアインガストが見知らぬ街であることは変わりない。行先もなく漂う姿は、帰省した道楽者のようであった。
 街は風雨に負けずに活気づいている。皆、祭典の準備で忙しいのだ。通りの清掃をして壁を磨き、街の文化を象徴する石膏の置物などは、曇空の日差しすら跳ね返すほどに磨き上げねばならない。外観だけではない。店を持つ者は仕入れの作業が増える。増加が見込まれる旅人に対して、普段の供給量では底をつくことが目に見えているし、場合によっては品を入れ替えることもあるはずだ。それが他国の貴族を招く大事な祭典における古都の民の意地なのだ。
 忙しそうに見えて、人々は弾んでいた。通りすがりで聞いた話だが、長い乾季の間にたまった砂埃が雨に流されて、街に色彩が戻っていくのが心地よいのだそうだ。
「禊……か」
 誰が言ったわけでもなく、アヴェリーはつぶやいた。
 穢(けが)れを洗い落とし、断罪する。
 祭典の始まりがどのようなものだったのか。アインガストの史学者ではないアヴェリーは知らない。だが、名前から察するに始まりは断罪の場だったのではなかろうか。「聖なる」「禊」と高貴な言葉を二つも続けているのだ。きっと邪なものへの警戒がこの伝統の根底にあるはずだ。
 自分の身に立ち返って、何を断罪するべきだろう。夢の旧約をミアスに渡すことができなかったことか。それともステファンやアストロイを殺してしまったことだろうか。二人に関して言えば、少なくともステファンは死なずに済んだはずだった。あるいは、もっと遡り、エネハインが滅びた日に城に居なかったことだろうか。防げたかどうかではない。最善を尽くしたのかという点で、どれにも悔いがある。そして、どれを考えても前向きな気持ちにはなれない。
 先に会話の主はこうも言っていた。雨に打たれた乾季の汚れが汚水となって、生活水に紛れ込むことがある。この時期に体の調子を崩す人は、そういう原因もあるから気を付けたほうがいい、と。
 断罪も同じことだ。アヴェリーが雨に打たれて罪を洗い流したところで、その罪は消えるわけではない。流れた先にあるものをしっかりと見届けていかねばならないのだ。
 その意味で、十六年の昔にシフェルとミアスが行動を起こした時、二人は水の流れる先を見据えていたのだろうか。リーニスとエリニスという双子が生まれたことによる苦しみを覚悟していたのだろうか。当事者のみならずレフェスに目を向けていたとしたら、同じ選択を辿ったのだろうか。ミアスもシフェルも愚か者ではない。身近な人間を守ろうとするのは誰しも同じだとアヴェリーは自分の口で言ったが、もしあの時に世界に目を向けていたとしたら、秤の重さに気づいて、大人しく赤子を殺していたのではないだろうかと思ってしまう。
 本当はもう答えが出ている。ディアクク会が強行したように、この世にエリニスとリーニスがいるのが間違いなのだ。命を軽んじてるわけではなく、人の倫理に立てば、王家が弄んだ命をこの世に生み出してはならなかったということになる。
 そう考えた時、アヴェリーは自分の役割を知った気がした。ミアスに断罪を薦められるのは、秘密を知り、近い距離にあるアヴェリーだけである。今この機会を逃し、リーニスに眠るハディアの力が二人の手に負えなくなってしまったら。その時には汚水の流れは誰にも止められず、いずれレフェスを穢すだろう。リーニスをこの手で葬るとするならば、やはり今しかない。
 理性は結論を出した。人の心が棲めない領域に。
 アヴェリーはとぼとぼと街を彷徨った。繁盛する街で親に置いていかれた迷子の様に、導いてくれる誰かに見つけてもらうのを待っていた。

続く