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リルジャの足枷

XLIV.禊(2)

 昼食の片づけを終えたミアスは椅子に座ってまどろんでいた。ごく最近までは、多少体が重たく感じても鞭を打つようにして通りに出て、旅人の情報をやり取りをしていたのだが、今はそれをしようとは思わない。そうなった理由には、体の老いももちろんある。最後に杖を振ってより、いつも通りに掴んだ皿が手から零れ落ち、小さな段差によく躓く。おかげで今まで知らなかった床の凹凸に気づくようになったほどだ。しかし、それが無気力の理由かと言えばそうではない。
 いつだって老いが最初に訪れるのは気力だ。動かせる体も考えられる頭もあるのに、どちらも働かせるのが億劫になる。人はそこから老いていく。どんなに生きがいだった日課も不必要だと思ったが最後、もうやることはない。老いとは、動物になっていくことだ。生理的欲求以外に何も残らず、生態活動だけを続け、ただひたすら死を待っている。人間らしい考えがあるとすれば、それは死を知っているという事だけだろう。
 そんなしょうもないことを考えるのにも、今までより時間を要している気もする。それに、いつの間にか時間が過ぎていることも多い。気がつけば雨雲が広がって、無意識に時の旧約を使って時間を早めてしまったのかと錯覚する。この体がいつまでもつのか。明日には視力も失せてしまうのではないか。不安が四六時中、意識とともにある。
 ミアスは雨に引き寄せられるようにして、窓に近づいた。空がもたらす命の恵みが、アインガストに情緒を与えている。人々と同じように、空もが祭典に向けて清らかな雨粒を用意しているのかもしれない。
 禊の祭典に際し、ミアスが思うことは少なかった。ミアスにとって十六度目の祭典になるが、今まで一度にその時期に外に出たのは数回だけである。目立たぬように人目を避けていたのが表向きの理由だが、本当は禊に打たれることに恐れがあった。レフェスの平和よりも一人の命を重視した罪を地獄へ持って逝く覚悟はできているのに、祭典の雨に打たれることで心が折れてしまう気がしたのだ。救われてはならない存在だという自負がミアスを祭典から遠ざけていた。祭典の思い出は、その暗い重圧が大部分を占め、ごく一部に大はしゃぎしていた幼いころのリーニスの笑顔が点在していた。
 ふと、無性にリーニスの顔が見たくなった。お茶を淹れるのにいい時間である。ミアスは床を蹴るようにして立った。勢いがなければ立ち上がれないようになったのは最近の事ではない。
 カップを取り、麻袋に茶葉を詰めて熱湯を注いでいると、誰かが台所に入ってきた。このところベッドから出ようとしなかったリーニスが、そこにいた。
「おや」
 ミアスの顔がほころび、しわだらけの顔が一層しわくちゃになった。
「匂いに釣られましたかな?」
 リーニスは何も言わずにそこに座った。疲れているように見えた。
「ご気分はいかがですかな?」
「……優れないわ」
 リーニスはそれだけ言うとお茶をすすった。一緒に並べた菓子類は、一瞥しただけで手を伸ばしもしなかった。
 リーニスが食欲旺盛だったことはない。女性とはいえ、成長期にある体がどこまで満足しているとは思えなかった。ましてやその華奢な体の中には、二人分の魂が入っているのだから。そんなことは口にせず、ミアスも黙って座った。
「ミアスはどう?」
 いきなりのリーニスの言葉に、ミアスは耳を疑った。リーニスが反抗期ともいうべき態度を取るようになってから、かけて来なかった類の言葉である。爺と言って懐いていた頃のリーニスに戻ったようだ。
 つかず離れずにしてきた世話が報われたような気になり、ミアスの目に涙が浮かんだ。かつては感情の起伏を押し殺して生きた監視院の一人だったとは思えない体たらくだ。しかし、涙腺が緩くなる老化というのも悪くはない。そんな思いが駆け巡った。
「どうということはございません。
 リーニス様のおかげで、毎日が楽しうございますよ」
「そう? ならよいのだけど……。
 最近、ミアスは妙に年老いて見えるわ」
「それはもう、この通り爺ですからのう」
 ミアスは笑った。人の反応を見るための笑みではなく、心のからの笑顔だった。しかし、リーニスは笑っていなかった。微笑みすらせず、何か物悲しい顔をしている。ミアスの頭に警鐘が灯ったのは、この時だった。
「ねえ、ミアス。最近、妙な声が聴こえるの……」
「はて? それはどのような?」
 聞くまでもない。ミアスはその正体を知っている。夢の旧約による封印を元に戻したばかりだというのに、ハディアめ、もう表に顔を出してきたのか。
「ええ。老婆の声よ。
 その声が……」
 リーニスはそこで言葉をためらった。言葉を探しているのだ。そして言った。
「あなたを殺せと……」
 ミアスは頷いた。
 ハディアのことをリーニスに伝える時が来たとは思わなかった。まだ十六歳になったばかりの彼女には重すぎる真実だ。今伝えたところで、大きな悲しみと不安が彼女を襲うだけであろう。それは少しも建設的な状況ではない。それは老人の欲でもあった。できることなら、もう少し、リーニスと笑い合える関係で居続けたい。
「今も声がするの。私、おかしくなりそう」
 ミアス。助けて。目にうっすらと涙が溜めて少女が言った。
 リーニスを救うには、今夜再び杖を振るしかない。もしかしたら、それが最後になってしまうかもしれないが、今リーニスを苦痛から救う方法はそれだけだ。アヴェリーは反対するだろうが、折り合いは今夜着けるしかあるまい。
 リーニスは机に泣き崩れた。両腕に押されて空のカップが横倒しになり、卓上を半回転して止まった。
「リーニス様」
 ミアスはリーニスに近づき、肩に触れた。
「今日は、少し外に出なさるかの。風に吹かれたら、嫌な声も聞こえなくなるやもしれません」
 リーニスは伏せたままだ。ミアスが顔を近づけると、何かうわごとのように呟いているのか聞こえた。読書で知ったまじないだろうかと思ったが、違った。
 これは念動の初歩だ。
 そう気がついた瞬間、ミアスの目の前を杖が飛んだ。
『ようやく杖から離れたね、ミアス』
 老婆の声が頭に響いた。口を微塵にも動かさず、思念を送りつけているのだ。
 ミアスはよろけて後ろに下がった。
「魔女め。何のつもりだ!」
『貴様らが掛けたこの厄介な封印を、この杖で砕くのさ』
「……封印の劣化を早めるという事か?
 その力を使えばどうなるか、分かって言っているのだろうな!」
 虚ろなリーニスの表情を被って、ハディアが笑った。
『分かっているとも。だが、残念ながら時の犠牲になるのはこの小娘だ。
 老いぼれは大人しく下がって観てな』
 ミアスは空圧に押されて吹き飛ばされた。叩きつけられた食器棚の中で、陶器が割れる。その間に時の杖が宙を舞ってリーニスに向くと、リーニスの金色に輝く髪の毛が逆巻いて、食堂の土埃を吸い上げるように風が唸った。放っておけば、リーニスの体は完全にハディアに乗っ取られてしまう。魔女本来の肉体ではないにせよ、ハディアの魂に自由を与えるのは非常に危険だ。後見人となった者の責任として、この場で喰い止めねばならない。
 リーニスの変わりゆく様を目に焼き付けながら、それを阻止する手だてを探った。そこへ、窓が吹き飛ぶ勢いで風が吹き荒ぶ最中、果物ナイフが手近に落ちてきた。ミアスは引き寄せられるようにして、それを手に取った。
 ハディアは脅迫と嘲笑を混ぜ合わせた、戦火の顔をしている。しかしそれでも、つい先ほどまで助けを求めていた少女の悲痛な表情が左目に残されていた。左右の眼球はあべこべに向いていて、左目だけから涙が流れている。今、この光景はリーニスの意識に届いているのかもしれない。きっと自分の今を悲しんでいるのだろう。
 目の前にいるこの悪魔は、ハディアであると同時にリーニスであることを知らしめている。もしそうであっても、迷ってはいけない。迷えば機を逃す。アヴェリーは、身近な人間を護ろうとするのは世界に共通していることだと言っていた。だが、それは同時に実現できないことがある。
 今になって、ミアスをそれを知った。この世の秩序を守るためには、誰かがそれを諦めなばならないという事だ。
「許してくれ!」
 ミアスは立ち上がり、果物ナイフを腰に据えてリーニスに飛び込んだ。
 ――が、遅かった。
 衝撃波のような突風が巻き起こり、ミアスは再び壁に叩きつけられて頭部を強打した。ボキリという鈍い音が自分の背中から鳴ったのか、棚から聞こえたのかに構っている余裕などない。目の前でリーニスのしなやかな金髪が、根元から漆黒に染まっていく。サナギが蝶になるのではなく、蝶が毒蛾に化けるかのようだ。そして、少女の眼に赤い光が灯った。
「ほう。これがシラクの力か」
 魔女のうら若い肉声が響いた。ついにハディアはリーニスの声を奪った。それはつまり、彼女の体がハディアの所有物と化したということだ。
「リルジャの入れ知恵も悪くない力を生んだものだ。しかし、我には要らぬな」
 そう言ってハディアは杖を投げ捨てた。世界の運命をも変える力が秘められているはずの杖が、恐ろしいほど軽い音を立てて床に転がる。ミアスは這いつくばってそれを拾いに行ったが、精いっぱいに伸ばしたその手は、ハディアに踏まれた。
「むごたらしいね、ミアス」
 少女とは思えない重さが老いて干からびたミアスの指に加わり、鈍い音が連なる。けたたましい笑い声とともに足がどけられた時には、指先が青白くはれ上がっていた。
「リーニスの体から出て行け」
 ミアスは這ったままハディアを睨み飛ばした。
「そう心配するな。体が手に入った暁には、この娘はきちんとお前の元に還してやろう」
 ハディアがミアスの首を掴み、無理やり起こした。
「だから教えてくれ、ミアス。お前が向かうのは天国か? それとも、地獄か?
 この娘はどちらに送ればいい?」
 ハディアの眼は嬉々としている。長い間幽閉されていた牢獄を抜け出した悪党と同じだ。
 激しい怒りがこみ上げてきたが、一矢を報いる手だてはない。騒ぎを大きくしてアヴェリーが駈けつけるまで時間を稼ぐ力も、この老人には残されていなかった。もはや目線を上に保つことすら難しい。視界は徐々に下がり、ハディアのつりあがった口元で止まった。
「……悪魔め」
 ようやくそれだけ言ったところで、力が尽きた。

続く