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リルジャの足枷

XLV.禊(3)

 街の一隅から高々と上がる煙を見た時、初めは祭典に向けた仕掛けか何かだと思った。それほどに街は賑わって、今にも出し物が始まりそうな気配が漂っていたからだ。しかし、その煙の方角に重大な意味があることに気づいた時、アヴェリーは駆けだしていた。
(馬鹿だった――)
 まだ結末を見たわけでもないのに、心は既に後悔している。目覚めかけの魔女と寿命の尽きかけた老人を置いてきたことに、である。昨夜のハディアにはリーニスの体を動かすほど力がなかったために問題はないと言っていたが、それがいつまでも続くわけではないことぐらい考えておかねばならない状態だったのだ。それなのに、とりわけやることが無いなどと言って出てきたしまった。顧みれば本当はあの場の閉塞感にたまりかねて出ただけに過ぎなかった。自分は今いる事態に向き合わず、逃げ出したのだ。
 ミアスの家につながる最後の角を曲がった時、予感は的中した。手前に広がる人だかりを見るだけで十分だった。
 どよめく衆人をかき分けながら進むと、家の扉は開け放たれてるのが見えた。家は扉から煙を吐き、リーニスの部屋の入り口にあった天窓は鍛冶屋の煙突のように黒煙を吹いている。扉の奥では煙と火の粉が踊っていて、人の姿は見えない。
 水をかぶるまでもなく、アヴェリーの体は濡れていた。だが、霧雨のそれよりも火事の熱が勝り、
徐々に乾いていく。迷っている時間はない。アヴェリーはうろたえる人々を背後に飛び込んだ。
 中は外から見たよりも悪かった。火は天井を渡り歩き、焼け焦げた木材がそのままの形で落ちてくる。判断をひとつ誤れば押しつぶされてしまいかねない。加えて視界は最悪で狭い廊下でも手を伸ばして壁に触れなければ歩けないほどだ。その壁も異様に熱を帯びて長くは触れられなかった。アヴェリーは携帯していた剣を外し、盲人のように足元を探りながら進んだ。
「ミアス殿!」
 精いっぱいに声を張って、むせた。充満していた煙が肺を侵し、アヴェリーの脳髄を揺らす。瞬間的に時を見失いかけたが、しかし、煙に降参するわけにはいかない。すでに髪は乾き始めている。リーニスとの順番を考えれば本来は逆なのだろうが、すくなくともミアスは救出したかった。
「ミアス殿!」
 むやみに息を吸わず、肺の力だけでもう一度叫んだ。
「こっちだ!」
 応答は台所の方から聴こえた。老いのない力強い声である。ミアスではないことはすぐに分かったが、誰だとは考える余裕もなく、アヴェリーは声に従って台所に踏み込んだ。
 台所は惨状にあふれていた。戸棚に収まっていたはずの食器は軒並み崩れ落ち、ガラスは部分的に溶け始めている。昼食を取ったばかりの机は二つに折れて、二脚の長椅子のようだ。その隙間に、ミアスの頭が見えた。
「ここだ、アヴェリー」
 そのミアスの肩を持っている男がいる。ハーサットだった。
 だが、いちいち驚く暇はない。梁はすでに傾いて、今にも三人に牙を剥こうとしている。
「机の脚を持ち上げてくれ。挟まって出せない」
「分かった」
 アヴェリーが床と机の隙間に背中を挿しこんで板のぶ厚い机を担ぎ上げると、ミアスの体は軽々と抜け、そのままハーサットの背中に担がれた。
「よし逃げるぞ」
「待て。まだリーニス様がいる」
「いや、もう飛んでった」
 ハーサットの言葉は深く考えるまでもなかった。<飛んで行った>ということは、もはやリーニスではない。人間でさえないのだ。アヴェリーはため息を押し殺して、ハーサットに続いた。
 二人は天井が崩落して通れなくなった玄関を諦め、寝泊まりした部屋の窓を目指した。幸い台所から離れているせいで、まだそれほど通りにくい状況にない。転げるような勢いで部屋に入ると、アヴェリーの荷物がそのままあるのが見えた。手荷物はどうでもよいが、使い込んだ得物だけは先々を考えると無視できない。アヴェリーは弓矢を取ると窓を割って、外に出た。
 天の助けか、外は大雨に変わっていた。火の熱と降りしきる雨の一騎打ちになり、最初は勢いづいていた炎も際限のない水に負け、やがて消沈した。ミアスの家は半壊で済み、火の気が無くなるとやじ馬たちも解散していった。近隣の者以外は、事が収まればただの出来事にすぎないのだろう。
 二人は火の気の無いところで、ミアスを安静にした。仰向けにしようと思ったが、背中がおかしく曲がっている。老人の息は浅い。物一つで塞げてしまう隙間風のようである。握った手もふにゃりとしていた。このままでは助からない――。早急に手当てが必要だ。しかし、見ず知らずのこの街で頼れるものなど誰もない。アヴェリーの額に汗が流れた。
「何という事じゃ!」
 いきなりの声に、二人は振り向いた。
 人の減った通りで誰かが騒いでいる。継いで、『コルメニク様、なりません』という従者の声が聴こえた。その声の主は、周りが引き留める声を押しやって、焼け跡に入ろうとしているらしい。
「誰だ? アヴェリー」
「……さて。しかし、ミアス殿のことを知っていそうな様子だな」
 周囲の反対を無視して、煙の立ち込める建物に入ろうというのだから、よほど親密な関係と思える。
「会ってみる。ミアス殿を頼む」
 アヴェリーはミアスをハーサットに託し、その男に近づいた。
 男はパレグレオの国章が施された外套をまとっていて、ひと目に要人だと分かった。汗だか雨だかで顔面がひどく濡れている。アヴェリーが近づくと、男は従者の呼び声通りにコルメニクと名乗り、自身がリーニスとミアスの後見人だと言って、アヴェリーの返事も聞かずにミアスは何処だと迫ってきた。
「裏に居ます。しかし、このままでは……」
「危篤なのだな。分かった、すぐに手配しよう。おい!」
 轟雷のような凄まじさで従者を呼びつけると、治癒師を呼べと言った。
「して、お主は何処の誰だ?」
 問われて返事に困った。フィオメインを出しては角が立つ。名乗るにしても、手配されている名前を平然と出すのは気が引ける。
「まあいい。助け出してくれたのだろう? ならば、何も訊かん」
 答えられずにいると、コルメニクはアヴェリーの沈黙から察したらしく、詰問はしなかった。
「助けたのは二人か?」
「いえ、ミアス殿だけです」
「そうか」
 コルメニクはリーニスの存在を知っている。それも、ただ知っているわけではなさそうだ。普通なら、リーニスをどうしたのかと激しく訊きだすところを、頷いただけで済ませるのだから。ただの後見人ではない。アヴェリーはそう理解した。
 アヴェエリーはコルメニクを連れて駆けた。コルメニクはレドベグと似たような背格好であるのに、かなりの鈍足だった。大した距離ではないのに、たどり着いた時には息を切らしていた。
「おい、しっかりせい」
 痛めた体を無理やり起こそうとするので、ハーサットが制した。
「ミアス。姫君はどうした?」
 ミアスは答えない。もう虫の息である。
 ハーサットの目はリーニスのことを伝えていいかと、アヴェリーに求めている。アヴェリーは迷ったが、首を横に振った。
「ミアス」
 コルメニクが必死に呼びかける。声こそ気高だが、肩は震えていた。
「申し訳ございませぬ」
 ついにミアスが口を開いた。
「馬鹿者。何を謝る」
「リーニス様を、護れませんでした」
「まだ何も終わっておらんぞ。諦めるな、ミアス」
 ミアスの肩を掴んで静かに起こすと、口から血が垂れてミアスは咽こんだ。鼻孔からは、ひゅうひゅうと音が漏れている。懸命に呼吸をしようとしているのだ。コルメニクが、治癒師はまだかと大声で叫ぶ。従者たちは右往左往するばかりだ。
「アヴェリー殿」
 視界にアヴェリーの顔を捉え、ミアスが呼んだ。名前に反応したのはアヴェリーだけではなかったが、アヴェリーは黙ってミアスの元に寄った。
「ここに」
 吐いた血と雨がまじりあって、ミアスの顔は真っ赤に濡れている。
「リーニス様を……ハディアから解き放ってくだされ。それが叶わぬ時は、貴方の手で、お願いします」
 ミアスの眼から、幾筋もの涙があふれ出た。頬を伝い、こめかみを伝い、四方に流れて血と交わった。
「分かりました」
 アヴェリーが応えるとミアスは小刻みに頷いて、やがて、すう、という長い音を立てて最期の一呼吸を終えた。ミアスの心臓はわずかにアヴェリーの手を押し返していたが、老人のそれは頼りなく、死を望んでいるようにも思え、鼓動は静かに消え行った。老人の瞼は固く閉ざされた。強い意志がそうさせているかのようであった。
「ミアス。おい、ミアス! 目を開けぬか!」
 慟哭するコルメニクの声が、近いのに遠くで聞こえる。アヴェリーはコルメニクにミアスを委ねた。
 苦痛に塗れていたミアスの顔が、雨に当たって徐々に和らぎ、安らかな顔に変わっていった。老人の血と涙も雨に洗われていく。古都の人々は、これを禊と呼ぶのだろうか。自業自得の結末として命を持って天に救われたと、語るのだろうか。
 アヴェリーには自業自得とは思えなかった。救われたとも思えない。ミアスもシフェルも、選ぶべくして選んだ道の果てにたどり着いたに過ぎないのだ。これまでの行動が罪深かろうとも、二人にとってはこれが信じた道であり、手段であった。
 結局、禊などどうでも良かった。居もしない神々に清めてもらう身など、元より有りはしない。大事すべきは、これからの行動である。過ちを償うかどうかではない。人の大地の平和と秩序をハディアやフィオメインの手から守れるかどうかにかかっている。
 コルメニクが呼んだ治癒師を叱責するその横で、アヴェリーの心にある一つの物語が終わり、また一つが始まった。

続く