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リルジャの足枷

XLVII.戦火(2)

 二月ぶりに見るフィルクスはやはりどこか頼りなさがうかがえる。顔が米粒ほどの大きさにしか見えないこの距離でも醸し出すものは同じといったところか。あの時よりも少しやせているように見えるのは、監視院のリストに入ったという事実がもたらせている様に思えた。
 アヴェリーの場所から見えるのは、フィルクスだけではない。かつての親衛騎士隊の同僚たちも、それぞれが持ち場についている。
 頭の中では整理したつもりであっても、アヴェリーの目はいつの間にかシフェルを探していた。ミアスの言葉を疑っていたわけではなかったが、やはり己の目で確かめておきたかった。当然のこと、シフェルはその場にいなかった。そのうちにテントの一つから男が出てきて、フィルクスと会話を貸さすのが見えた。男の外套にはフィオメイン王家の紋章とそれを囲うようにして描かれた盾の紋様が刺繍されていた。かつてはシフェルの背中にあった外套だった。親衛騎士隊長の代名詞とも言えた。残念ながらシフェルは死んだのだと、その背中が言っているような気がした。
(……感傷に浸っている場合ではないな)
 庭園の様子が分かりさえすれば、この場に留まり続けるのは時間の無駄だ。
 風見の塔から立ち去ろうとした時に、その男とフィルクスがこちらを向いた。アヴェリーはとっさに身を隠したが、二人の視線は壁を突き抜けて背中に刺さるようで、一歩も動けなくなった。
 暴風渦巻くこの塔が、庭園から見えるとは思えない。アヴェリー自身、塔のシルエットは下から見えたが、壁の隙間はほとんど見えなかった。気付かれたとは思わなかったが、示し合わせたかのようにして二人が同時に此方を見たというのが不気味で身を凍らせる。今のはひとかたならない視線だった。
 アヴェリーは静かにその場を離れた。親衛騎士隊の不気味さが後に残ったが、エリニスの場所は知れた。庭園内の衛兵も祭壇とテント付近は数が多いが、それ以外の場所は十分に潜入できる空きがあることも分かった。偵察は十分である。後に生きない危険を冒す必要はない。塔の中でどんな音を立てようと、塔が鳴らす風の音に敵うはずもないのに、アヴェリーは盗人のように慎重な足運びで梯子を降り、塔から抜け出した。
「どうだった?」
 そわそわしながら待っていたハーサットは開口一番にそう言った。
「東に回り込もう。王族たちが滞在しているテントがある。その奥から二番目のテントがフィオメインのようだ」
 アヴェリーは手のひらに地図を書いてハーサットに伝えた。
 二人は駆け足で庭園の外周を回った。夜が足元から迫っている。夕刻にはじめる前夜祭まで、まだ時間が残されているが猶予はない。それに、前夜祭を待たずともハディアがエリニスを見つけ、その危険な願望を叶えてしまう可能性はある。紛れもない術者であるハディアならば、息苦しい思いをして塔に上らなくともエリニスの場所を知ることができるかもしれない。だが今は、先に回られたとしてもフィオメインの親衛騎士隊がいる。アヴェリーにとっても敵となりうる存在だが、少なくともハディアを無条件に通すことはないだろう。
 庭園の外塀は塔から見下ろしたよりも高かったが、ハーサットを踏み台にしてアヴェリーが先に入り、ロープを使って首尾よく二人とも侵入することができた。緑はまだ粗末だが、背の高い木が植えられていて仄暗かった。雨のせいで地面がぬかるんで、湿地のようである。乾季の名残すら残す路地と比べて、そこは異世界だった。枯れ枝の目立つ雑木林の先にテントの群れが見える。先ほどの外塀と同じように、塔から見下ろした時よりも大きく見えた。
 アヴェリーは服のおかげで不自由しないが、ハーサットは水浴びをしたようで、服がまとわりついて動きにくそうだ。その湿気を好んでいるのか、羽虫が上下に踊り、それに合わせて上下に雨粒が舞う。うっとうしさも相まって、視界はどうにも冴えなかった。しかし、その視界の悪さが二人の隠れ身ととなってもいる。二人は身を屈めながらテントに寄っていった。
 霧雨が揺れる白いヴェールとなって、行き来する数人の影を映し出している。影でしかわからないが、帯剣している者の方が多いのは、各国の要人が集っていることの現れだろう。親衛騎士隊に居たころの規則からすれば、一人につき五人の護衛を伴うのが常だ。十人以上の貴族がいることは予想できるから、その計算を当てはめれば、この場には五十の兵士がいることになる。そして、彼らは誰しもが腕に覚えのある粒ぞろいだという事だ。
 辺りを囲う林から出ないようにしながら、二人はエリニスのテントを目指し、近くまで足を進めた。雨にふやけた視界の中で、テントの入り口付近を騎士隊が固めているのが見える。胸にある国章からして、フィオメイン王家のテントであることは間違いなさそうだった。しかし、雨除けのフードのせいで顔が良く見えないものの、かつての同僚にしては見覚えのない痩身の男である。
 虫の報せとも言うべき悪寒を感じながら、アヴェリーはハーサットに目配せをして、一人でテントの裏に近づいた。暗闇に侵され始めた庭園は、光のともったテントの方が明るい。中にいる人の影がぼんやりと浮かび上がっていた。
 静まり返ったテントの中で何人かの影たちが厳かに動いているが、一つだけ微動だにしない影があった。椅子に座り、動こうとしないその影はエリニスのものだ。エリニスの影を認めた瞬間からテントを包む天幕は標的を映し出す水鏡になった。風のあおりに合わせて、水面に写る顔のようにエリニスの影が揺れる。アヴェリーは幕の隙間を探し出し、そこを通せるだけの矢の勢いを求めてテントから離れた。アヴェリーの様子を察知して、ハーサットも近寄る。
 辺りに人目が無いことを確かめて、ゆっくりと絞った矢の先にエリニスを捉えた時、アヴェリーの頭の中にシフェルとの会話が浮かんできた。騎士なのに弓道を極めようとしているアヴェリーがその理由を問われた時の話だ。弓ならば距離が離れていても先手が打てると答えたアヴェリーに、シフェルはそれこそが護衛の神髄だと言った。
 アヴェリーは今まさに、それと逆のことをしようとしている。この一矢で、フィオメイン王女を殺すのだ。
『よいのか?』
 アヴェリーの中の、良心とも悪心とも区別のつかないもう一つの人格が、射かけた本人に問い掛ける。
『エリニスを殺せば、ハディアは永遠にリーニスの中にいることになるのだぞ?』
 アヴェリーにその問いに応えず、ただひたすら矢じりの先にある何かを見つめた。
『ハディアが肉体を手にするその時に殺せば、一石二鳥ではないか』
『そんなのはまやかしだ』
 また別の心が囁く。
『そんなことをして、失敗すれば全てが水泡に帰す。我欲のために世界を脅かそうというのか?』
『我欲の何が悪い。ここで手を打たなくとも、誰かがどうにかするだろう。
 心を折って尽くすほどの価値が、この世のどこにあるものか』
『それは違う。誰かが心を尽くすから、この世に価値が生まれるのだ』
『その誰かは、お前である必要があるのか? アヴェリー』
 鉄の矢じりが雨に濡れている。白昼夢を見るかのようなアヴェリーを現実に引き戻したのは、ハーサットだった。
「みんなの荷物だ。お前だけが背負う必要はない」
 文字通りに目の覚める一言を受け、二つの両極から生まれた囁きはかき消された。アヴェリーの焦点はエリニスに戻っている。矢羽を掴んだ右手を離せば、シフェルとミアスが遺した始末の半分は終わる。今はそれを求めてここにいるのだ。
 ついに矢が放たれた。孔雀の羽が雨を弾き、軌跡に雨粒を浮かして飛ぶ。その軌道の起点で、アヴェリーは唇をかみしめていた。目をそむけたくあるその光景を見届けることが、元親衛騎士隊としての役割だ。心も説いている。果たすべき役割は、務めてきた過去にはなく、これからの未来にあることを。
 アヴェリーの矢はまっすぐにエリニスの頭に向かった。
 しかし、魔女の肉体に至る手前の中空でピタリと止まった。
 時が止まったように思えた。だが、アヴェリーもハーサットも首をひねる自由がある。矢は意図的に止められたのだ。そんなことができて、この場に居合わせる人物は一人しかいない。言い換えれば、一歩遅かったのである。
 夕闇の中から生まれ出る様にして、ハディアの輪郭が地面から生えた。黒々としたその影が薄曇りの弱光に晒されて、徐々に人間の色味を取り戻していく。
(ハディア――!)
 すぐさま次の矢を継いだアヴェリーよりも先に、ハーサットが斧を投げた。斧は雨粒をまき散らしながらハディアを通り過ぎ、エリニスに向かって飛んだ。しかし、今度は鈍い金属音を立てて、叩き落とされてしまった。
 塔から見た騎士隊長の男が抜身の剣を手に立ちふさがる。アヴェリーの知らないその男は、氷を彫って作ったような血の気のない眼をしていた。
 アヴェリーは男に構わず、第二、第三の矢を射たものの、第二の矢は男の剣に落とされ、矢羽をちぎって軌道を曲げた第三の矢はハディアに止められてエリニスまでは届かない。
「アヴェリー。援護しろ!」
 ハーサットがもう一つの戦斧を背中から抜き出して突撃をしかける。その動きに合わせて弓を引いたところで、ハディアが手を挙げた。
「風雨よ。凍てつけ――」
 その一言で霧雨が瞬時に白い壁になり、無言の吹雪が押し寄せた。吟遊詩人が語るのと差して変わらない安っぽい言葉の並びなのに、未来を呪われたような寒さである。びしょ濡れだったハーサットは氷像になりかけるほどに白んで、舌打ちも冴えない。
 吹雪がもたらした氷の静寂はすぐに割れたが、指先がしびれて満足に動かなかった。ハディアを狙おうにも、矢はあらぬ方向を向いている。
 二人ではハディアを止められない。頼みの綱は目の前にいる騎士隊長だけだ。
「その女を近づけるな!」
 アヴェリーは声を張り上げたが、騎士隊長の男は平然とした顔で二人を見下ろしている。危機感を全く感じていない目だ。傍観者でもない。まるで、ハディアの力に満足しているような、そんな眼差しだった。やがて男は、ハーサットの斧を退けた剣をゆっくりと納めた。

続く