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リルジャの足枷

XLVIII.戦火(3)

 雨が空気を裂く音と風が天幕を揺らす音が遠慮がちに伝わる。そのうちにアヴェリーと騎士長が睨み合う様を見物していたハディアが笑い、その声を聴きつけた親衛騎士隊がテントから顔を出した。
 なじみの面々の中にいはフィルクスもいた。援護を求めようとも思ったが、全員が力のない眼差しをしていた。フィルクスの透き通るような青色をしていたはずの目は、曇の向こうにある夕日を写したような黄金色に染まっていて、一言にいって虚ろだ。視線はアヴェリーを通り過ぎてどこかに過ぎ去っていた。アヴェリーはフィルクスに掛けようとした声を、静かに飲み込んだ。
「アヴェリーかな?」
 男が呼びかける。
「残念だが、お前にとっては手遅れだ。フィオメインの王女は、今日、あるべき姿になる」
「それは、どういう意味か分かっているのか?」
「我々の万年の願いが叶うという事だ」
 その一言に、親衛騎士隊を頼ろうとしたのが大きな過ちであったことに気づかされた。もともと国に尽くすのが騎士隊の本分である。フィオメインが推し進めてきた計画に対して、忠実に動く。それがレフェスにとって喜ばしい計画ではなかったと知った時、皆の良心が痛まないはずはないが、騎士たちのの様子を見る限り、今の彼らにはまともな判断ができないのだろう。
「……大きな過ちになるぞ」
 魔女を護衛するかのようにハディアの前に立った男へ、アヴェリーは負け惜しみのように呟いた。
「それはお前たちだよ、アヴェリー。そして、ハーサット」
 急に名を呼ばれ、ハーサットは身構えた。
「何者だ? なぜ俺の名を知っている」
「鈍いな。子狼ともあろう者が、親狼に気づかんとは」
 男の左目がにわかに光り、ハーサットは硬直した。その緊張をアヴェリーは知る由もない。
 あの爺は、まだどこかで生きて居やがる――。
 アイシノイの森でグレナードが漏らした言葉を思い出しながら、ハーサットは括目した。
 男の顔が、体全体が、日に焼けた皮をむくようにしてぽろぽろと剥がれ落ちていく。目をこすりたくなるような情景は、しかし、錯覚などではなかった。むしろ今まで見ていた男の姿こそが錯覚だった。男の虚像が砕け、霧雨が破片を洗い落としたその場所に、フェリオ・エネハインが立っていた。
「お前たちは我々ハイ・メインが長い歴史を費やして進めてきた偉大な計画を何一つ知らぬまま、邪魔しようとしている」
 アヴェリーは、ハーサットとフェリオ公の顔を交互に見た。
 エネハインの崩壊から八年。それは、アヴェリーにとってフェリオ公を見ていなかった年月になる。目の前に立つ白骨化した死神のような男と、アヴェリーの記憶にあるフェリオ公と呼ばれていた王族の姿はどうしても一致しない。
 対照的にハーサットは愕然としていた。八年前に看取ったその男が、城が崩壊した後に瓦礫の中から見つかった時の姿のまま、目の前にいることが信じられなかった。表情ひとつ動かせないハーサットの顔がおかしいのか、フェリオ公が品のない笑い声を浴びせる。
 ハーサットの動揺は見て取れた。勇ましさの象徴とも言えた戦斧が力なく地面に着いている。ヴェルゼルスを相手にしても見せたことのない姿だ。己の想像を超える者の存在に畏怖していた。
(怖じてはいけない)
 アヴェリーはその思いとともに立ち上がった。ハディアの起こした吹雪による震えがおさまった今なら戦える。愚直に射かけた所でまた落されるのは目に見えていたが、このままおずおずと引き下がるわけにもいかない。レフェスの平和と秩序を守る好機があるとすれば、それは今ここにしか落ちていないのだ。拾わずに逃げるような真似は、ミアスは許してもシフェルが許さないだろう。
 アヴェリーが弓を引くとフェリオ公は冷笑した。
「アヴェリー。一つ忘れていないか?
 お前は今、かつてお前が遣えた、エネハインとフィオメインの王族の前に居るのだ。膝ひとつ着かず、礼ひとつせず、無礼だとは思わんのか? ハイ・メインの面汚しめ」
 耳の痛くなる言葉ではなかった。そう言われた方が返って気持ちが晴れる。
「結局のところ私は流浪の騎士だ。遣える王などいない。今の私が遣えるのは、己の信念のみだ」
 アヴェリーは蔑むフェリオ公を無視して、立て続けに矢を放った。最初の三本は互いに軌道を違え、二つはハディアの鼻先をかすめてエリニスへ、一つはフェリオ公へ向かった。どちらもすぐに地に落とされたが、それは読み通りだった。期待を込めたのは、二人の眼が三本の矢に気を盗られた隙をついて最後に放った一本である。その一本は、この場にいる全員の視界から瞬時に消え去るほどの大きな弧を描きながらも、まっすぐに引き寄せられるようにしてエリニスに向かっていた。魔女と死神はその一矢に気づいていなかった。
 しかし、その一矢もアヴェリーの願いを届けることはなかった。寸でのところで矢が逸れて、天幕に刺さって終えた。目を凝らすと、エリニスの周囲に青い膜が薄く光っているのが見える。ハディアが敷いた結界だった。
「残念だが、妹をそう易くやらせはしない」
 ハディアが皮肉に笑う。リーニスとエリニスという関係であったならば、どんなに微笑ましい言葉であるか知れないが、今は違う。
「さて、そろそろ茶番を終えよう」
 フェリオ公が目つきを変えた。アヴェリーは既に臨戦態勢にある。ハーサットも気を持ち直して、戦斧を構えた。
「そう構えるな。お前の相手は私ではない。お前と苦楽を共にした親衛騎士隊の面々だ」
 そこに並ぶ者たちにアヴェリーの知らない顔は一つもないが、皆フィルクスと同じように生気のない顔をしている。まるで死人のようだ。
「皆に何をした」
 圧し沈めていた怒りが沸々とこみ上げ、鋭く睨んだアヴェリーだったが、フェリオ公はそれに胸を張った。
「旧約の力だ。光の力で彼らの魂を奪った。人間は光に弱くできている。強い光を浴びれば魂を焼かれ、光の奴隷と化す。それは生きながらにして死んでいるに等しい」
 フェリオ公の言葉の意味は解せなかった。何を言おうとしているのかよく分からないが、狂っていることははっきりと判った。そして、かつての同僚たちも無事ではないということもだ。それがアヴェリーに剣を抜かせる口実になったわけではない。彼らに刃を向けづらくなったというのが実際のところだった。
 生まれた均衡の中をハディアが悠然と歩き去ろうとしている。魔女の背中を護るようにして立つ騎士隊は、己の立場を知ってか知らずか、焦点の定まらない瞳をして、そこには神殿に置きならべられた石像のように、無機質と有機質が同居していた。
 何もできないアヴェリーたちをよそに、ハディアがテントの暗がりに手を伸ばす。天幕は魔女を招き入れるかのようにしてめくれ上がり、暗黒に連なる口が開いた。
 中に入り込むのは阻止しなければならないと、狙いが定まらないままアヴェリーが弓を絞ったその時、ハディアの動きが突然ぎこちなくなった。
『アヴェリー――』
 確かにそう聴こえた。耳鳴りのようにも思えたが、幻聴ではない。リーニスの声だ。魔女の中で生きる少女があがらうその声が、確かに聞こえた。
 目の前に立ちはだかる親衛騎士隊の壁は高いの分かっている。魂を抜かれようとも、それぞれが剣の使い手である少数精鋭の部隊なのだ。弓を長所としてきたアヴェリーにとって、接近戦は避けなければならないものだが、テントが乱立して狭いこの場所では、それも避けようがない。しかし、かぼそいその声が、望みを捨ててはならないとアヴェリーを鼓舞する。
『アヴェリー』
 リーニスが呼んでいる。ハディアは時が止まったかのように動かない。リーニスが抵抗し、押しとどめているのだ。
『私を殺して』
 冷たい汗が背筋を這った。
 王家が生んだ悲運の少女は、今、己の命を捨ててこの事態を納めようというのだ。そらなのに、少女の命すら守れず、約束一つ守れず、何かが騎士だ。
 アヴェリーは弓矢を捨て、リーニスを救おうというその一心で剣に手をかけた。
 気合とともに剣を抜きかけた瞬間に、雨をまき散らすほどの強い風が吹いた。突風の域を超えた、暴風ともいうべき凄まじさだ。土も葉も、樹木さえも巻き上げられ、目もあけていられないほどにその風は吹き荒れた。
 辛うじて見た景色の中で、騎士隊の陣形が乱れていた。外套を風に引きずられ、姿勢が保てていない。フェリオ公も同じだった。不思議なことにアヴェリーだけが、暴風の被害を受けずに立っている。風によって世界が分断されたかのような特異な光景だった。
「アヴェリー! 今だ!」
 地面にしがみ付くハーサットが叫ぶ。その声に合わせ、射ろと言わんばかりに矢が風に乗って矢筒から浮かび上がってきた。風下でエリニスの白髪が揺れている。先ほどは邪魔をした結界も、リーニスがハディアを抑えているために、今はない。千載一遇の好機が風に運ばれてきた。
「『アヴェリー!」』
 共鳴したハーサットとリーニスの声を両耳に受けながら、アヴェリーは矢を放った。
 渦巻く風に合わせて矢羽を右に、左に回転させながら、矢は逞しく飛び、ハディアの耳をかすめ、エリニスの胸部を貫いた。
 そして、風が止んだ。
 リーニスの声も聞こえない。
 静まり返った時を動かすかのように、再び白い霧雨が降りてきた。
「おのれ」
 白羽を蓄えた己の肉体を見た魔女の苛立ちがその場の全てを扇動する。雨粒さえも震え上がるようで、吹雪など起こってはいないのに寒さを感じる。
 アヴェリーは弓を握りしめた。凶悪な悪寒に体が委縮している。それはハーサットも、フェリオ公さえも同じに見えた。
 ハディアが手を掲げると、先ほどよりもはるかに猛烈な吹雪が起こり、アヴェリーとハーサットは周囲に立てられたテントを巻き込んで吹き飛んだ。
「我が肉体に傷を負わせたことは褒めてやろう。
 だが、もとより命のない肉体に生傷など何の意味もない。怒りを引き出したに過ぎぬ。この女ともども、後悔させてくれる」
 ハディアはその言葉を残して、テントに消えた。
 魔女を追うべく、起き上がったアヴェリーだが、辺りに散るテントの残骸を見て気付いた。他国の王族や衛兵が一人もいない。その場に確認できる者は二人のほかにフェリオ公と親衛騎士隊だけである。
 どういうことだと怪訝に思った時に、雨空の中に光るものが見えた。
「伏せろ!」
 ハーサットが叫ぶ前に、アヴェリーはそうしていた。火矢だった。一本や二本ではない。霧雨に交じっていくつもの火の玉が降り注いでくる。その矛先はこの一帯に向けられていた。

続く