web clap

リルジャの足枷

XLIX.戦火(4)

 雨霞の向こうに弓兵の影が見える。横一列に並んだ部隊の先頭に立っているのは、パレグレオの旗を掲げた騎兵だった。どうやら大公国は、他国の来賓を避難させ、部隊をよこしてきたようだ。目の前のことに集中するあまり、パレグレオ兵の接近には今の今まで気づかなかった。ハディアが起こした吹雪に対して、他のテントから様子を伺う顔が出てこなかった時点で、気づくべきであったと言えばその通りだ。
 先頭の騎兵が振るうタクトに従って次の火矢が天を仰ぐのが見え、アヴェリーは焦った。今の火矢は吹雪がもたらした寒さを吹き飛ばしてくれたが、同時に天幕を焼いている。テントの奥に消えたハディアがどうなったのか、ここからでは黒い煙に巻かれて何も見えない。ハディアの魂はどうであれ、体はリーニスのものだ。エリニスの肉体が生物的に死ぬのは願ってもないことだが、リーニスの死は願っていない。
 弓隊の指先から火の玉が離れたのと同時にアヴェリーはテントに向かい、ハーサットの制止する声を振り切って突撃した。どういうつもりか、親衛騎士隊はハディアよりもフェリオ公を護るために火矢を振り払い、アヴェリーの動きに気にかけるようすがない。かつての同僚たちは、フェリオ公のしもべと化してしまったのかもしれない。アヴェリーはフィルクスの死んだ瞳を一瞥し、土埃を立てながらテントに滑り込んだ。
 天幕の向こうを火矢が横切る最中で、ハディアは肉体と対面していた。少女の足元にたたずむ影が移動する光源に合わせて伸び縮みをし、その中央に居るリーニスとエリニスの白い顔は、水面を境にした月の実像と虚像のように、テントの暗がりに浮かんでいる。
 これが最後の機会だ。瞬間的に閃いたアヴェリーだったが、剣を抜こうとしたちょうどその時にハディアの顔がゆっくりとこちらを向いて、アヴェリーの手は柄を握ったところで止まってしまった。
 ハディアの頬に一筋の涙が流れている。唇を震わせ、その顔は不安におびえる少女のそのものだ。
(遅かった――)
 ハディアはすでにリーニスの体を抜け出し、エリニスの体に収まったのだ。海底に沈めたガラス玉のように水をまとった瞳は、立ち尽くす彼女がリーニスであることの証となっている。
 次の時には、気力の果てたリーニスが卒倒した。
 アヴェリーは駆け寄った。しかし、その肩をアヴェリーよりも先に掴んだのはエリニスの体を手に入れたハディアだった。ハディアがリーニスの華奢な腕を握り、そのまま骨をへし折る音が響く。激痛に目を覚ましたリーニスが叫び、同時に数本の火矢が天幕を突き破って隕石のように降り注いだ。
「リーニス様!」
 アヴェリーが叫ぶより早く、燃えた天幕の隙間から現れたハーサットがハディアに飛び掛かった。剛腕の騎士が両腕で力強く打ち下した戦斧はハディアの首に食い込んだように思えたが、重い金属音がなったかと思うと、ハーサットの体がアヴェリーに向けて飛んできた。ハーサットの巨体はアヴェリーを巻き込んでさらに飛び、二人の体は後ろに置かれていた机を粉砕して止まった。地面に脳天をうちつけてしまったせいで、景色が揺らぐ。
「あははは」
 ハディアが高笑いがテントに響く。
「我が不滅の肉体が、人間と同じようにできていると思っているなら大間違いだ。人間の生み出した金属ごときに、魂を宿した我が血肉は傷つけらやせぬ。お前の弓の跡ですら、もはや痛みも感じわ」
 色味のない麻のような魔女の胸を、つい先ほど射抜いたアヴェリーの矢が、ハディアにへし折られて地面に落ちる。気絶したハーサットの体躯をどけながら見た戦斧の刃は、ハディアの体が異質であることを証明するかのように、粉々に砕けていた。刃の厚い斧でさえこの状態なのでは、アヴェリーの腰に下がっている剣で傷を負わせることも叶わない。出奔の日にシフェルがアヴェリーに用意した剣も、ハディアの前では拾った枝のようなものだ。
 頭を振って平衡感覚を取り戻そうとするアヴェリーの前で、ハディアがリーニスの首を掴んだ。ぎしぎしと骨が軋む音が聞こえてきそうなほど手が強く絞られ、リーニスはハディアの腕をつかんで苦しんでいる。
『助けて!』
 リーニスの思考が言霊となってアヴェリーの頭を駆け巡る。やっとのことで体を起こしたアヴェリーだったが、ハディアに睨まれた瞬間に体の自由を失った。
「貴様はそこで見ておれ」
 真の姿に戻った魔女にはもはや呪文など必要なかった。眼球の動き一つで人の動きを制してしまうのだ。動きどころか、今のアヴェリーは呼吸すらままならない。己の体が現実から消されてしまったかのように感じられてならない。
 リーニスの脚が地面から離れ、しなやかな首があり得ないほどに伸びている。皮一枚の切り傷が着いただけで、そこから千切れてしまいそうだ。ついには気を失ったリーニスから命が終わる音が聞こえた気がした。
 ハディアが期待外れの手紙を読み捨てるかのように、少女の体を投げ捨てた。地面に転げたリーニスの首は体との繋がりが見えないほど屈折していて、閉ざされた瞳から垂れる涙はミアスのそれと同じであった。
 テントの外では、親衛騎士隊とパレグレオ兵の交戦が始まっている。鋼と鋼がぶつかり、肉と骨が断たれる音が辺りを包む。天幕の向こう側で鳴り響く音は近くて遠く、別の次元で起こっている出来事のようだ。
 フェリオ公やかつての仲間たちがどのようになっているのか。アヴェリーの思考がそこに及ぶことはなかった。だが、ハディアはそれさえも楽しんでいるように見えた。
「はじまったか」
 耳に心地の良い音楽をたしなむかのごとく、ハディアが目を瞑っている。その様にいだいた嫌悪感が、黒い汗となって吹き出そうだ。アヴェリーは歯を食いしばった。
「そう睨むな」
 目をつぶったまま、ハディアが言う。
「このままでは終わらんぞ」
「ふん。お前たちに何ができるというのだ? 私の前に立ちはだかることなど、人間にはできぬ。そもそも、人間の役目は有史以前から決まっているのだ。常に怯え、泣き、命を乞う。人間に未来などない。人は一時にしか知らぬ道化だ。道化ごときが、我のように永続的に世界に君臨する、いわば君主に報復することなど、この世の理にはないことだ」
 アヴェリーはハディアを睨んだまま一言も発しなかった。答えれば負けるような気がした。ただ、ひたすらにその眼差しで、目の前に居座って君主と名乗る者を恐れていないことを訴えた。
「その目を止めぬか」
 視線が気に食わないのか、ハディアがいきんだ。アヴェリーはその反感を受け止めたまま、次に取るべき行動を考えつつ、視線をハディアに釘づけた。
 その時、目の端で微かにとらえた動きがあった。テントの周りを動く兵士たちの影でも、未だに行き交う火矢の光でもない。リーニスだ。リーニスが息をするようなしぐさを見せた。気のせいかもしれない。ハディアに悟られてはまずいと、リーニスを直視することができないが、そこで息づいているような気がする。
 リーニスが生きている。
 気のせいであったとしても、その考えが生じた瞬間、アヴェリーに希望を帯びた緊張がよみがえった。この場でハディアをどうにかすることはできないかもしれないが、リーニスを救うことならば、なんとかなるかもしれない。問題はどのようにして魔女の注意をひきつけるかだ。そして長考する時間もない。テントの火は大きく広がり、黒煙がリーニスを燻製にする前に動かねばならない。
「うぅ」
 ハーサットのうめき声にハディアが気を取られた一瞬の隙をアヴェリーは利用した。
 シフェルの剣を一挙に引き抜いて、全身全霊を込めてそれを投げた。剣が突風をまとってハディアへ飛ぶ。ハディアは虚を突かれて、飛び退いてそれをかわしたが、狙いはハディアではない。その後ろにある、ロープだった。庭園の地面に打たれた杭と天幕の一端をつなぐ、いわばテントの大黒柱である。
「ハーサット! 逃げるぞ!!」
 支柱を失ったテントが解ける間にハーサットを足蹴にして起こしつつ、一気に駆けた。並べられた燭台の明かりが、乱れながらに倒れてリーニスの手を照らした時、白くて細い指先が微かだが確かに動くのが見えた。
 生きている――。あの時ハディアが手加減をしたとは思えない。あるとすれば、それは紛れもないリーニスの力、生命力だろう。そうでなければ天の助けだ。
 天幕に覆われて足掻くハディアを尻目に、アヴェリーはリーニスを抱きかかえて、そのままテントを抜けた。外形だけの人形のように軽くて冷たい体だが、わずかに体温がある。かすかな望みという名のぬくもりだった。
 燭台の火が天幕へと燃え移り、宵闇迫るネラクの庭園を朱に染め上げる。その灯りを背景に逃げられると実感した時、背後でただならぬ殺意が起き上がるのを感じ、アヴェリーは振り向いた。
 無言のハディアがそこに立っていた。
 天幕から燃え上がる炎が大蛇のようにうねり、魔女の体躯を包んでいる。ハディアの指の動きに合わせて炎は刃の形に凝縮され、赤い槍となってアヴェリーに向かってきた。
 避けようがなかった。両手で抱えたリーニスを捨てる訳にはいかず、自分とリーニスの体重を支える足は、そこから生えているかのように地面と密接になってはがれようとしない。守るべき少女の命を懐に抱き締め、身を焦がす覚悟でアヴェリーは背を向けた。煮えたぎるマグマのような熱気が背中に迫る。だが、決死のアヴェリーに体当たりをしてきた者がいた。
 直後に地鳴りのような叫び声が響いた。誰のでもない、ハーサットの悲鳴である。
「ハーサット!」
 ハーサットは左肩を抑えて悶えた。血しぶきがリーニスの頬にかかるほど高く跳ね上がる。
「ふん。うまく急所は外したか」
 ハディアがつまらなそうに言う。
「まあいい。お前たち三人を殺したところで、面白くもない。どうせ、明日にはこの世に存在しないのだ」
「何をするつもりだ?」
「見ての通りだ」
 ハディアが首を向けた先で、声が上がった。悲鳴というには大げさな、何かに驚いたような声だった。目を向けると親衛騎士隊と戦っていた何人かの兵士が蝿を払うようなしぐさを見せている。やがて、同じような素振りをする兵士の数が増え、次第に蝿の粒が雨粒以上に集まり始めた。
「お前の良く知る物をここへ招いた。かわいい我が従者だ」
 ヴェルゼルスだ。ハディアが扱う魔物と言えばほかに思い当らない。
「竜の死骸などここにはないぞ」
「お前は何かを間違えているな。竜に力があるのではない。蝿に力があるのだ」
 ハディアは笑っている。それを合図に、辺りから叫び声が聞こえ始めた。今度のは間違いなく悲鳴だった。
「既に庭園は死骸で満ちている。我が従者にとっては楽園に他ならぬ。
 さあ、死が死を招く宴の始まりだ。お前の棺がどこにあるか、よく探すことだ。亡者となってレフェスを彷徨い歩きたくなければな」
 高らかな笑い声とともに、ハディアが浮かび上がった。
「どこへいく!」
「死者への伝言などない」
 魔女はそのまま空高くに飛行して、夕闇の彼方へと姿を消した。
 後に残ったのは、安心などではなく、先々への畏怖でもなく、打ち終えたばかりの黒鋼のような冷たさの下に潜熱を隠した決意だった。
 このままでは済まされない――。
 その思いとともにアヴェリーはハディアの消えていった軌跡を見ていた。
「行ったか?」
 ハーサットが血を垂らしながら起きようとしている。
「気にかけるな。それより、傷口を見せてみろ」
「何、大したことはない」
 ハーサットは右手を挙げて応えるが、血の気の無い指先は薄暮の空に吸い込まれてしまいそうなほど白い。脇の下にも達している裂傷は、動脈を傷つけていた。
「すまない。おかげで命拾いをした」
「お互い様だ。それより、早くそのお姫様を」
 アヴェリーはうなづいた。
 庭園の中心地で火の手が上がっている。親衛騎士隊に魔法を使う者は居なかった。皆、剣で道を切り開いてきた者たちだ。火矢がもたらした者でなければ、フェリオ公の力によるものだろうか。あるいは、忌まわしい蝿が媒介したことでアンデッドと化した亡者たちに放たれたものかもしれない。
 窯になりかけた庭園の中で、アヴェリーは退路を探した。
 加勢をしなければという気持ちはあるが、両手は手負いの者たちで埋まっている。意識のあるハーサットはともかく、眠ったままのリーニスは助かるのか分からない。
「アヴェリー殿」
 右往左往していると、誰かが呼びかけた。
 テントが燃える煙の向こうで手招きをしている人物がいる。松明すら灯さず、忍び込む様にして身をかがめて立っていたのはコルメニクだった。数人の従者のほかに、さきほどの治癒師を連れている。アヴェリーにとって大きな助けとなった。
「すまん。伝え手が誤ったのか、見境なく矢を射かけてしまった」
 近づきながらに謝るコルメニクの言葉をよそに、アヴェリーは話を進めた。
「二人をお願いできますか?」
「もちろん。そのために来たようなものだ。しかし、お主はどうする?」
「私は元親衛騎士。彼らと戦うなら、私が見届けなければ」
「俺も行く」
 ハーサットが身を起こした。肩の出血はちっとも収まっていない。
「無理をするな、ハーサット」
 足手まといになるという言葉を飲み込んで、アヴェリーは引き留めたが、ハーサットは首を横に振って強情に訴える。
「あんた、治せるんだろ? この傷を何とかしてくれ」
 ハーサットの呼びかけに治癒師がゆっくりとこちらを見た。雨除けのフードの下に隠されていた顔は妖しいほどに綺麗だった。長いまつげと、こめかみの上あたりで銀色に光る十字架を模した髪留めが女であることを示している。その女が手をかざすと、ハーサットは高揚する間もなく出血が止まった。
「傷口を塞いだだけです。無理はしないように」
 女が言った。ハーサットはその魔法に感心するあまり、一言も聞いていないようだった。
 彼女が南レフェスの宗教国家モルシアロイカから派遣されたヴィーティアル<聖霊遣い>であることは後で聞かされた。その時はただ、彼女なら命を救ってくれると信じて、リーニスを託すのみだった。
「気を付けよ。街中が戦火に焦がされておる」
 コルメニクの嘆きのような忠告を背に、アヴェリーは弓矢を担いでそこを離れた。

続く