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リルジャの足枷

LI.魔性の力(1)

 自らの呼吸も血の流れも凍りつかせるほどの冷静な洞察によって、フェリオ公の奇術を見破ることができたアヴェリーにとっても、今度はそうはいかなかった。目の前に広がる虚空は、何かの冗談にしか思えない。ハーサットとフェリオ公が手を組んでアヴェリーをからかっているとは考えなかったが、あまりに想像を超えた幕切れに、今日の全ての出来事がまやかしなのではないかと、疑いたくなるほどだ。
 しかし、現実に足元にはハーサットの流した血が、油漏れしたランプの跡のように残っている。雨と混ざって紅から朱に広がったそれは、アヴェリーの頬をつねるのよりも刺激となって目を覚めさせる。街中にふりまかれた戦火も、そこから伸びるきな臭さに交じった湿気の匂いも、嘘りようののない現実のものだ。
 その光景を凝視したまま、もう一度様々な可能性に思考を巡らせてみたが、思いつくのは一つでだけである。ハーサットはフェリオ公が使った移動の魔法に飲み込まれた。それしか考えられない。だとするならば、ハーサットはフェリオ公と一緒にいるはずだ。
 アヴェリーから見た限り、ハーサットが最後に加えた一撃は致命傷だった。ハーサット自身がハディアから受けた金創は深いが、即座に命が終るようなものではない。とはいえ、移動した先でハーサットが殺されていることは考えにくくとも、救命措置が必要なことは確かだ。しかし、あまり猶予が無いことを焦ったところで、今立っているこの場所からハーサットに合流する術はない。なによりもまず、場所を知る術がないのだ。
「くそっ!」
 他の手がかりを探して周囲を徘徊した後で、ついに苛立ちが袋を割って飛出し、アヴェリーは瓦礫を蹴り飛ばした。空しい音が燃える木の空洞がはじける音に混じってアインガストに響き渡る。瓦礫は様々な音を立てて転がり、一人の男の足元で止まった。
 戦火にまみれた古都の中でひときわ浮いていたその人物は、茫然自失ではなしに、悠然とそこ立っていた。フェリオ公との戦闘が始まる前からどころではない、アヴェリーはハーサットが生を受ける何年も前からそこに立っていたかのような存在感をかもし出している。
 男の目は、アヴェリーの腰あたりで止まっていた。
「私に何か?」
「この剣はお主の物かな?」
 男が右手に持っていたのは、シフェルがアヴェリーに寄越した剣だった。ついさっき、リーニスを救う際にテントの縄に向けて投げた物である。
「確かに、私のものです」
「では、お主がアヴェリーか」
「……いかにも」
 不可思議な邂逅だった。剣に自分の名を彫った覚えはない。それなのに、置いていった剣から持ち主の名前を言い当てるということは、あの場にいたコルメニクの知人なのだろうか。
「あなたは?」
「私はアウベス。アウベス・エル・ドニアムという」
 どこかで耳にした名前だと思った。コルメニクを中心とした記憶をたどったが行き当たらず、つながりをミアスに切り替えた時に、それがディアクク会の長の名前と合致して、アヴェリーは、はっとした。
「存じておられるようだな」
 アウベスは言った。
「このようなところでいったい何を……」
 言いかけて、アヴェリーは思い出した。ハーサットはディアクク会の命令で夢の旧約を持ち出したのだ。結果的にこのような苦労を強いられているのである。
 アヴェリーが一瞬だけ抱いたわずかな憎しみが顔に現れたのか、壮齢の男はやれやれと言った顔をした。
「そう身構えんでくれ。誰しも己の身が可愛いのだ。誰しもが、己の気持ちを救うために、他人の犠牲を探している。しかし、それは会の者に限った事ではない。もっとも、お主もその手の問答は繰り広げたろう。そして、その答えは既に得ているのではないかな?」
 アウベスの言うとおりだった。誰かが犠牲にならなければならないことは、すでに分かっている。あくまで理性が分かっているだけであるが、この場でそれをディアクク会の長にぶつけた所で何になるだろう。
 アヴェリーは黙ってアウベスの差し出したシフェルの剣を受け取った。するとその時、徹夜の翌朝に効くような鈍い音が、アヴェリーの鼓膜を震わせた。
「ドニアム殿。今、何を?」
 受け取った剣を納めつつ、アヴェリーは聞いた。
「アウベスでよい。ドニアムと呼ばれるのは違和感がある。
 少し、お主の記憶を見せてもらったのだよ」
 そう言った後でアウベスは、動き始めたようだなと呟いた。
 司祭長の眼には、渦中にあっても人を和ませるような不思議な力が宿っている。人心を知るに知る男の成せる技ともいえるのかもしれない。アヴェリーは無意識に警戒を解いていた。
「どうやら、運命はお主を選んだようだ」
「……何の、話です?」
「これから先の男を追うつもりであろう?」
 思考を覗き込むとはそういうことなのか、アウベスが言い当てる。
「はい」
 操られた糸吊り人形のように、アヴェリーはうなずいた。
「それならば、お主が終止符を打つ者になろう」
 アウベスはただ、静かにアヴェリーを見つめていた。アヴェリーを正面に捉えがならも、その奥にある未来の像を眺め観るような遠い視線が、その黒い瞳孔の奥から生じている。不思議にもアヴェリーは司祭長の瞳の奥に、迫ることのできない遠い昔の世界を見たような気がした。
「あなたはいったい――?」
「何のことはない。ただの司祭だよ」
 アウベスははぐらかした。その眼に悪意は見えなくても、アヴェリーは屈したような気持ちなった。己の無知さ加減への嫌悪など、この期に及んでありはしないが、今さら聞かされようとする状況への不満が少なからずある。
 そもそもアヴェリーの中では、ミアスの独白を持ってすべてが日の元に晒されたはずだったのだ。確かに名も知らない親衛騎士隊長がフェリオ公に変わった時から、ミアスに聞かされた話では説明できない状況にはあった。しかし、それもいずれ自明になると心の隅で期待していた。だが、闇夜に出現した司祭長は、アヴェリーの知り得たことは星屑の一つにすぎないことを醸し出している。アヴェリーがこれから別の世界に足を踏み入れようとしていることを告げるかのように。
「気に病まないでくれ。この先に待っているのは、世界に蔓延る闇が呼吸する領域だ。その深き闇と戦ったリルジャの意志に、お主は迎えられた。それはむしろ、誇らしいことなのだよ」
 宣告者のように言うアウベスのセリフをおぼろげに掴んだまま、アヴェリーは浅くうなづいた。
「私はフェリオ・エネハインとハディアにまつわる深い闇を、お主に伝えるためにここに来た」
 手始めにアウベスは、アヴェリーの良く知る二つの名前を挙げた。
「事の始まりは古い。奈落の底の神に起因する」
「奈落の底の――」
 フェリオ公とハディアをはるかに凌ぐ巨悪の代名詞を告げられ、アヴェリーは途中で口をつぐんだ。
 その言葉は人であれば必ず知っている。神々がこの世界を去る際に箱舟から追放され、魔族の地、レトヴィアに落ちた女神ヘレを示す言葉である。のちに魔族を束ねる神となったヘレは『魔族の神』や、『氷の女神』と呼ばれもするが、それ以上に人々を震え上がらせる呼び名が『奈落の底の神』であった。その名はヘレがカレトヴィアに落ちた際にできた巨大な穴に由来する。その穴は島々が収まるほどの広さがあって地獄の火釜が覗けるほど深く、その周囲は形成の際に地面がえぐれた分だけ隆起して深雪を頂く鋭岳となり、その一帯はありとあらゆる魔物を抱く冥王の王環、すなわちハデスクラウンと恐れられている。ヘレは去りし神々への報復として、神の庇護をうけた人間たちの滅亡を、その冥王環の中心にある奈落の底で目論んでいるのだ。それが奈落の底の神たる由縁であり、人が彼の神を恐れる理由である。
「私に云われるでもなく存じていよう。
 その奈落の底の神が魔族の王カディルとともにカレトヴィアから南下し、北レフェスに攻め入ったのが、数百年の昔に起こった、人間と魔族の最初の大戦だった」
 ヘレが魔族を挙党してレフェスに押し寄せた史実は、いまやどこにも生き証人がいないほど遠い過去の出来事ではあるが、それは石に彫られたごとくに消えない歴史であり、北レフェスを徘徊する魔物はその爪痕でもある。今の世情が示す通り、人と魔族の戦いは人の勝利に終わった。人間たちは旧約の力をもってして、魔族を追い返すことに成功したわけである。
 しかし、それが今さらどうしたのいうのか。疑惑を抱いたアヴェリーの思考を見抜いているのか、アウベスは続けた。
「ハディアの歴史を伝えるにあたって、存在を明かしておかねばならぬ人物がいる。名をディオニール・ゼクソンという若者のことだ。古の戦いにおいて名を示したその男は、確かな知識を持った素晴らしき者であった」
 だが、狂っていた――。
 アウベスは嘆かわしく語りはじめた。

続く