web clap

リルジャの足枷

LIII.魔性の力(3)

「人が神にならんという究極の進化の価値が分からぬというのなら、もう良い」
 グレーナードとハーサットの冷ややかな視線を受けて、フェリオ公はつまらなそうな顔をした。
「私をさっさと殺せ。そして、ヴェルグールがよみがえった後で過ちを悔いるがよい。取り返しがつかなくなった、とな」
「ふん。取り返しのつかない過ちを犯したのは貴様の方だ。あの時、ラスタニアで俺を殺さずに生かた。その報いを、今迎えようとしている」
 グレナードがフェリオ公を押しのけ、光の玉を体から離すようにして握った。玉からは相変わらずフェリオ公につながる光の糸が、母子をつなぐへその緒のように伸びている。
 ハーサットは、その光の糸こそがフェリオ公の命綱なのだと知った。エネハインが崩落した時にフェリオ公の左目から光の旧約を抜き取ったのは、他ならぬハーサットであったが、それでも生き延びていたのは、旧約との結びつきを絶っていなかったからなのだ。そして、旧約を持ち去ったのは、盗賊でも何者でもなく、土葬したフェリオ公自身だったということだ。
 今や、フェリオ公は刃が落ちるのを待つ罪人と同じであった。ただし、顔につけている肉面は遺恨の表情も嘆きの表情もしていない。天寿を全うして死にゆく王族が、棺桶で見せる顔と同じだった。
 しかし、その顔はやがて苦痛の表情へと移ろった。三つ編みに鋏を通すように一つ一つのつながりが途絶えていく。そして、最後の糸が断たれたとき、ハーサットはまばゆい光を見た。この場所へ瞬間移動した時よりも、はるかにまばゆいその光がたてた音なのか、あるいは、フェリオ公の断末魔の叫びなのか、ハーサットの耳元を強い風に立ち向かったような音が通り過ぎ、方々へ散っていった。
 フェリオ公は鉛の像になっていた。背中に刺さった斧が蝙蝠の羽のように生えて、片方になった目を見開き、失われた光の玉を求める様に瞳孔の奥で闇夜の満月を捉えていた。
「ハーサット・キベック。だったか? まさかこんな所で再び顔を合わせるとはな。これも還元の力か」
 深い息を吐くハーサットの顔をグレナードが覗き込んだ。
「おい。生きているか?」
「生きているとも。……これで貸し借りなしだ」
 顔をゆがめながらハーサットが言うと、グレナードは声を立てて笑った。
「貸し借り? あの爺を追い詰めた事が借りか? それは図々しいな。いずれ俺の手で始末をつけるつもりだった。
 だが、まあいいだろう。お前のその傷に免じて、帳消しという事にしてやる」
 グレナードはハーサットの傷に触れ、顔をしかめた。今になって放っておけば命を落とすほどの重症であることに気づいたようだ。
「連れはどうした?」
「……アインガストだ」
「アインガストだと? どうやってここまで来た?」
「それは俺が知りたい。ここはどこだ?」
「フィオメインだ」
「フィオ……」
 最後まで言う気にならなず、ハーサットは肩をすくめた。フィオメインに頼れる人物はいない。
「ここで終わりか――」
 真っ赤に濡れた左手を眺めながら呟くと、グレナードがしゃがみこんだ。
「生き延びたいか?」
「……死にたがる奴がどこにいる?」
「稀にいる。あるいは、死ぬしか道が無いやつとかな」
「……俺は生き延びたい」
「なら、これを持て」
 グレナードが差し出したのは、光の旧約であった。
「どうしろと?」
「旧約の力を使って生き延びる他にない」
「……しかし、どうすればいい? 持っているだけでいいのか?」
「いや――」
 グレナードは光の旧約をハーサットの手の平に押し込むと、小さな声で何かを呟いた。口の動き一つで言えるほど短い単語だったが、その言葉を引き金にして旧約の玉が光を取り戻した。
「今、何を――?」
「旧約の力を呼び覚ました。あの爺がやっていたようにな」
 頭上の月よりも明るい太陽のような光の玉は、しかし、見た目に反して冷ややかだった。ただ、その芯に隠しきれない熱がある。左肩の出血が止まったわけではないが、ハーサットの体に活力が生まれるのを感じた。
「後で返してもらうぞ。旧約の力は俺も必要なのでな」
「何に使うつもりだ? 悪しき目的のためだというのなら、今すぐにここから放り投げるぞ」
「……強く出たな。いいだろう。命を賭ける人間は嫌いじゃない。
 俺の目的はアンクレット・アークの力でヴェルグールを倒すことにある。あの爺が死んだ以上、復活は避けられん。アンクレットアークの力を借りるには、その旧約が必要なのだ」
「……わかった。しかし、返したら……、俺は終わりか?」
「お前はまだ死んではいない。くそ爺のようにはならんだろう。その傷が癒えた後で、受け取ることにする」
「そうか」
 ハーサットは無性に詫びなければならいという気持ちに駆られた。エネハインが滅んだ時、フェリオ公は犠牲者であり、その遺言から吐き出されたグレナードは容疑者だった。あくまで容疑者だ。エネハインをあのようにした“可能性のある”人物であった。だが、長い年月が経つ間に、グレナードこそが元凶であると思うようになっていた。背景も何も知らずに、最後の王族、つまり主人を殺した人間だと決めつけていた。しかし、すべては逆だった。最後の主は異端者で、目の前に立つ鉛の像は死神をかたどっているようにしか見えない。グレナードはその死神の犠牲となった人間の血縁者だった。
『他人には他人の背景がある』
 レドベグと口論した時にアヴェリーが言った言葉が身に染みた。
「すまん」
 グレナードは鼻で笑った。この一言にどのような意味が込められているかは、分かっていないようだった。ハーサットはそれ以上を口にしなかった。
「ところで、お前が持っていたセオン紅石はどうした?」
「……仲間が持っている」
「そいつはいい。セオン紅石が世界に散らばっている限り、魔竜が息を吹き返すことはない」
「なるほど。――しかし、残念だな。あいつは必ず追ってくる。そういうやつだ」
「……では、お前はそいつと一緒に遠くへ逃げろ。今の俺にはヴェルグールを止める力はない。還元を先延ばしにするには、石が可能な限り遠くにある方がいい」
「……あんたはどうする?」
「紅母石を探す。砕けるとは思えんが、出来る限りのことをしなければな」
「そうか。気を付けてな」
「お前こそ」
 グレナードは短く告げると、黒い城が落す漆黒の影に消えていった。
 
「さて、アヴェリー。このさきはお主にやってもらわねばならぬ。ただちにフィオメインに戻り、闇の住人を食い止めねば、レフェスは魔族の手に落ちてしまう」
「しかし、どんなに公路を急いでも、フィオメインに戻るには二十日はかかります。私が紅石を所持しているかぎり、フェリオ公の目的は果たされないかもしれませんが、おそらくフィオメインは……」
「エネハインと同じ道を辿るであろうな。
 だが、安心せよ。お主を送り込む方法ならある」
 アウベスはアヴェリーに背を向けるとゆっくりと瓦礫の上を歩き、あるところで立ち止まった。そこからゆっくりを身をかがめ、瓦礫の山に手を埋めると、卵を取り出す家禽農家のように一本の木くずを取り出した。
「それは――」
 良く見るまでもない、夜霧に浮かぶシルエットだけで、ミアスの遺した旧約の杖だと分かった。
「お主をフィオメインに戻そう。ただし、お主の立っている場所だけだ。世界の時間を戻すほどの力技は私にはできんのでな」
 アウベスは時の杖をかざした。
「用意はいいかな?」
「いえ。待ってください。私一人が戻ったところでは、紅石を届けに行くようなものです」
 先ほどはリーニスを抱えていたとはいえ、ハディア相手に手も足も出せなかった。フェリオ公に致命傷を与えたのも、ハーサットがいたからこそのものだ。戻った先でハーサットと合流したところで、彼はもう戦えないだろう。それどころか、生きていれば幸運なぐらいだ。見た目の傷はそれほどに大きかった。
 せめて、ハディアとディオニールに深いかかわりがあると見えるこの司祭長がいれば、心強い。そう思ったアヴェリーだったが、言葉を発する前にアウベスは首を振った。
「私はもう一人連れて行かねばならぬ」
 アウベスは温和な笑みを浮かべた。
「しばしのお別れだが、なに、大丈夫だ。勝機は我々にある。ディオニールは、大きな過ちを犯した。
 それに、仲間と呼べるかは分からぬが、フィオメインには我々と同じ目的を持つ者がいる」
「それは、いったい誰です?」
「グレナード・ラスタニアだ」
 アヴェリーは顔をしかめたまま固まった。故郷を滅ぼしたと言われている男の名を告げられたところで、同じ目的を持っているとは到底思えない。仮にそうだったとして、ハディアと共闘することができるだろうか。
「身構えることはない。先ほど言ったとおり、お主の祖国エネハインを滅ぼしたのは他ならぬディオニールだ。あの男は処処において巻き込まれているのだよ」
 なだめる様にアウベスが言ったが、少なくとも身内とは考えた居なかったグレナードの名前が出て、擁護するような言葉が囁かれると、にわかな疑心暗鬼の心が生まれてくる。これまでの司祭長の話に矛盾はない。だが、元をただせばやはり目の前にいるのはディアクク会の長である。これまでアヴェリーとハーサットが共存しなかった宗教集団の長の言葉に従って、このまま突き進むべきなのだろうか。
「今はそれで良かろう」
 またもアウベスはアヴェリーの心中を察した。まるでアヴェリーの思考の全てを耳の穴から覗き込んでいるかのようだ。
「しかし、アヴェリー、砂時計の中にある細かな粒子は、この戦いの終わりに向けて一斉に落ち始めた。それは、この杖の力を持ってしても、取り返せぬ時の流れの果てに起こったことだ。お主にも、この私にさえ、できるのは進むことだけなのだよ」
 アウベスがミアスと同じように何かの呪文を唱えはじめる。それに合わせて、アヴェリーの足元にある自身の影が、揺ら揺らと動きはじめた。
「決着をお主に託すのは私だけではない。ミアスも、シフェルもそうだった。恐らくお主の友も、お主に期待を寄せているだろう」
 覚悟の決まらないまま、アヴェリーの体は流砂に乗った枝のように動き始めた。まさしくアウベスの言うように、アヴェリーは今、一つの穴へと向かうガラスの中の砂になったのだ。
「全ての結末は、お主自身の目で確かめなさい」
 地面が、背景が、油絵を溶かすようにして流れていく。視線を交えたアウベスの目はその光景の中で最後まで残って、その双眸はシフェルやミアスのそれを思い起こさせたが、ついには、あらゆる光景が動き、アヴェリーの前方に過ぎ去っていった。目に映る景色は、アインガストの壁、ハイデンヒム街道の土、アイシノイの木々、スタインバードの石像、レドベグの宿のカウンター、再び街道の土と移っていく。それらは瞬く間に過ぎ去って、静止した時場所は仄暗かった。壁に掛かったランタンが、暗闇に数頭の馬の背を浮かび上がらせている。見覚えを超えて、なじみ深いその場所は、フィオメインの馬屋であった。

続く