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リルジャの足枷

LIV.魔性の力(4)

 空が高い。雲一つない空間が天空まで伸びているのに、どこか見下されているような閉塞感を感じるのは、多すぎる太陽のせいだ。色の異なる八つの太陽の七つが虹色に輝き、最後の一つだけが漆黒の穴となって浮かんでいる。その穴からは戦場をかけているかのような音が漏れて聴こえるが、フィルクスの耳には遠くの国に打ちつけるさざ波のごとき子守唄に聞こえた。
(ここはどこなのだろう?)
 フィルクスは荒野を彷徨っていた。いつからここにいるのか分からない。ここにきた時を覚えていないし、多すぎる太陽が昼夜を問わずに照り付けるせいで、何日たったのかが全く分からないのだ。その空白の記憶を除けば、頭の中は意外にもはっきりとしている。自分の生い立ちはもちろん、関わった人の顔はきちんと思い出せる。何をしようとしてこうなったのか。それだけが分からない。
(私は死んだのだろうか?)
 一日中――と思われる時を歩いき通しても、疲労は蓄積されない。あての無い不安が積もるだけだ。頼れるもののない不安。それは、両親を失った時に似ていた。
『長くに王家にお仕えしてきたフィーレ家も、ついに潰える時が来た』
 当時のことを思い出すと、礼装に身を包んだ男の顔が浮かびかがる。十年たった今でも、よく覚えている光景だ。フィルクスは足を止めて、しばしその思い出に浸った。
『実に不愉快な話だ』
 先の男と同じく、礼装の老人が言った。フィルクス自身も世話になってきた給仕長である。白くて長いあごひげを蓄えた老人であったが、参列するにあたって剃り落としてきた。露わになった顎がさみしいのか、はたまた風に当たって寒いのか、しきりに顎を触っている。何とも落ち着きが無く見えた。
『ロアンナ様に引き続き……。王家は何が不服でフィーレ家を根絶やしにしようと考えるのじゃ』
 憤った老給仕は唾をまき散らし、周囲の人間に嫌な顔をさせた。
『謀反だそうだ』
 奥に座る近親が、重たい口を開いた。フィルクスの父よりも十歳の長がある分家の主は、葬儀に集った血縁集団を筆頭する存在だ。
『謀反ですと? 馬鹿なことを仰いますな!』
 老人の頭が茹であがった蟹のように赤くなる。給仕する相手ではないとはいえ、元の主の親戚に対して聞く口ではない。近親の男は眉をひそめた。
『王家の秘密を洩らしたと聞いている。本当だとすれば、立派な謀反だよ、爺さん』
『そんな、アラガン様に限ってそのようなことが』
 アラガンは父の名前である。フィーレ家の主アラガン・フィーレは、忠誠心の代名詞とも言われたほど、王家に忠義を注ぐことに心血を尽くしてきた人物であった。
『そそのかされたそうだ。監視院のミアスとかいう王の腹の虫に』
『……むう。監視院をつかって貶めるとは卑怯な――』
 その後もフィーレ家に深く関わる者たちは、黒い噂話を続けた。主婦たちが道端で話す色話と違って陰惨極まりないそれらの話は、両親の葬儀が終わるまでの間、水車の歯車のように、時にとだえながらも、流れに便乗して紡がれていった。
 フィルクスは話の糸の一本一本を記憶していたわけではない。むしろ、ほとんど耳につかなかった。当時のフィルクスにとって、フィーレ家の長い歴史が自分の代を待たずに終わることよりも、両親の処刑が遥かに大きかった。捉えられて直ぐの処刑ではなく、六年の禁固刑の後の処刑である。物心がつく前に引き離された両親がついに釈放されると期待していただけに、それが叶わなかった衝撃も大きかった。
 そのフィルクスに対して、親類たちの嘆きはどちらかというと大家の存続が途絶えることに置かれていた。傷心のフィルクスに目もくれず、アラガンを非難する者までいた。当然のことながら、フィルクスはその情景を嫌った。そのため、フィーレという姓をはく奪され、遠戚に当たるレヴナンの家へ養子入りしたあとも、フィルクスの悲しみは両親にのみ向けられていた。
 その失われた家柄への愛着というより、興味の一端が沸き上がったのは、二年後の、祖父の死がきっかけであった。
 両親の処刑と同じ時期から、フィルクスは祖父との面会を禁じられていた。祖父が宮廷魔術師であったために近寄れなかったという事実もあるが、禁固刑の付録ともいうべき王家の処断により、一族の繋がりが全て断たれ、各々が他人になってしまったせいである。本来ならば祖父の死もフィルクスの耳に入ることもなく、祖父を迎え入れた家の内々のうちに葬られることになっていた。
 祖父の死の報せを、正確には死ぬ直前の危篤の報せを秘密裏に運んできたのは、他ならぬ老給仕であった。老いてもなお干からびることのなかった給仕の心が、フィルクスを祖父に引き合わせ、そして、ディアクク会へ導いたのである。
 フィルクスは、祖父の死後すぐに運命に誘われるようにしてディアクク会の門を叩き、アウベス・エル・ドニアムと対面した。灼熱の荒れ地に立つ今でも、その時の様相を思い浮かべるのはたやすい。目を閉じれば、あの時の暗室が再現される。重たい空気が流れる部屋で、アウベスは言った。時間をかけて、命の遣い方を考えよ。それがフィーレ家の宿命であり、運命なのだ、と。
 思い返せば、不思議な感覚だった。一度も芽を出さなかった種が寒波の日に発芽したような、予期せぬ関心が、フィルクスの中に芽生えたのである。
 フィーレ家とは何なのか――。しかし、それを訊きだそうにも血のつながる肉親はもういない。散り散りになった血族との繋がりを持っていた老給仕も、祖父を追うようにして他界してしまった。いまさら両親の死について調べ始めたところで、言い方を替えれば王家に殺された者の情報など残されているはずもなく、葬儀の折に親類が挙げたミアスという名前も、身近に知っている者は誰もいない。監視院に尋ねるのが筋であろうが、そんなことをすれば、己の身が案じられることぐらい判る年齢に、フィルクスはなっていた。
(私の命の遣い方、か……)
 今に戻り、フィルクスは点を仰いだが、虹色の空は何も答えてくれない。
『由緒あるフィーレ家の血をこの場で絶やすのも考え物だ』
 ふとその時に、その言葉が浮かび上がった。しかし、誰の言葉なのかが思い出せない。天井に造られた鉄格子を衛兵が押さえつけるように、何者かが外から封じ込めているような間隔を覚える。
(いつの言葉だ?)
 フィルクスは七色の太陽を見上げた。紫でもない、青でもない。黄色でも赤でもなく、橙色の太陽が眼に止まる。
(夕方だ。あれは陽の落ちる頃だった)
 フィルクスの手が鉄格子に届いた。だが、押さえつける衛兵の顔が思い出せない。
 あの日の夕暮に紳士面で近づいてきた男は、フィルクスの心中を見抜くや悪鬼のような表情で差し迫ってきた。不気味な力を持ったあのまなざしに釘付けになった瞬間、フィルクスは今の荒野に送り込まれたのだ。
 自分がどうしてこんな場所に居るのか。鉄格子はつかんだフィルクスだが、しかし、それを思い出したのはこれが初めてではない気がする。
 虹色の空と太陽に囲まれていると、この大事な記憶もすぐにあやふやになり、また、なぜここに立っているのかを忘れてしまう。記憶が敵なのではない。辺りを囲うすべてが敵なのだ。自我を保とうとすればするほど、春眠に誘われるがごとく、砂漠のオアシスに誘われるがごとく、思い出したばかりの記憶がおろそかになって、再び記憶を失っていくのだ。足元の砂にメモを残すことすらままならない。フィルクスの手から鉄格子が離れてしまった。
(ここはどこなのだ?)
 見上げれば、相変わらず七色の太陽と黒い穴が浮かんでいる。穴から漏れる外の世界の悲鳴と怒号は、フィルクスに囁くだけであった。
  フィルクス――
 同じ思考を何週も駆け巡った時、どこからか呼び声が聴こえた。
 辺りを見回しても、人影一つ見当たらない。延々と広がる荒野に自分一人しかいないことは、今さら気づくことでもなかった。それでも、誰かが呼ぶ声が聴こえる。ここに来てから初めてのことだ。
  私の声が聴こえるだろう――
 誰かが言った。この声には聴き覚えがある。アウベスの声だ。目を閉じれば、なおさら、閉ざされた闇の中にその顔が浮かび上がる。
  目を覚ましたまえ、フィルクス・フィーレ――
 人を見守る神の発言のように、アウベスの声は空から聞こえてくる。
 フィルクスは空を見上げた。七色の太陽の光がかすみ、黒い太陽がやけに存在感を増している。その黒い穴に注目していると、穴は人間の瞳孔のように拡縮を繰り返していた。
  お主に流れる高貴な血は、このような安っぽい術に飲まれるものではあるまい――
 アウベスの呼びかけに、フィルクスは再び謎の男の言葉を思い出した。
『由緒あるフィーレ家の血を……』
 今度はあの男の容姿が見える。フィルクスよりも上背だが細身で、軽そうな体つきであった。
(名を何と言ったか)
 フィルクスは再び思考を阻む鉄格子を掴んだ。今度は手放してはならない。ここに送り込まれた時のことを思い出せば、元の世界に脱出できそうな気がする。
(名を思い出せ。
 ……そうだ。ディオニールだ!)
 フィルクスを貶めた男の顔がまざまざと蘇る。ディオニールの左目が怪しげな光を放った時、フィルクスはしびれたような感覚を覚えた。そして、気がつくとこの無限の荒野に立っていたのだ。空をまたがる七つの太陽は、あの時の光の象徴だった。あの光こそが、記憶の蓋をする鉄格子だったのだ。
 フィルクスは黒い太陽に注目した。そこから漏れる音が先ほどより大きく聴こえる。あれは太陽ではない。この空間と現実をつなぐ唯一の穴なのだ。その穴が瞳孔のように見えるのは、フィルクス自身の本来の視野だからに他ならない。
 黒い穴が徐々に広がる。やがて七色の太陽を蹴散らすほどの大きさになった時、穴の向こうに広がっているのが夜であることに気がついた。
「良く戻った」
 目の前で、アウベスが笑っている。雨雲が占める夜空に、もはや虹色の太陽は存在の欠片すら残っていなかった。

続く