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リルジャの足枷

LV.神との契り(1)

 アインガストにいる間に体にこびりついた雨季の湿気は、フィオメインの土を踏んだ瞬間からどこかに失せていた。古都の情景を描いた油絵が解け、アヴェリーの頭上には雲一つない夜空が広がっている。目隠しをされて放り出された荒野で見上げるよりも遙かにに冷ややかに映る空には、たった今鋳造して浮かべたような月が浮かび、フィオメインの城影を夜空から切り取っていた。
 アヴェリーは手始めに武具庫へ向かうと矢を足し、松明を手に取って夜半の城を突き進んだ。アヴェリーが出奔してからふた月の間に、ディオニールの手に堕ちたとアウベスが語っていたとおり城はもぬけの殻である。灯り一つない城は、文明の尽きた古城のようで、蜘蛛と蛾とカビが我が物顔で佇んでいる。聴こえてくるのはアヴェリーの足音の反響だけだ。時に足を止めて様子を伺っても、主としてあるのは静寂だった。
(ハーサットは何処だ?)
 アヴェリーは静まり返った城の中で、友を探して彷徨った。
 ハーサットがディオニールとともにいるのは間違いない。問題はその場所がどこかという事になるが、ディオニールが親衛騎士隊をまとめる者としてアインガストに現れたというのは、状況から見て取れる。親衛隊長ならばどこかしらの部屋が割り当てられるはずだ。
 シフェルの部屋を訪れたアヴェリーの考えは結果的に外れていた。しかし、部屋を出た時に何者かの声を聞き捉えたのは幸運だった。声は、三階を歩くアヴェリーの足元から響き渡ってくる。城の壁が織りなす反響を聞き分けていると、その声が中庭から聞こえてくることに気づいた。
 アヴェリーは壁際に立って耳を澄ませた。
「……あんたはどうする?」
「紅母石を探す。砕けるとは思えんが、出来る限りのことをしなければな」
 目を凝らして中庭を見たが、月明かりの影になっている部分が多く、人や物を判別するには光が足りない。
「そうか。気を付けてな」
 ハーサットの声だ。
 生きていた。アヴェリーは嬉しくなったが、同時に誰との会話なのかが気になった。しかし、その後の会話は聴こえなくなった。
 アヴェリーは階下へと急いだ。途絶えた会話はハーサットの死を現しているような内容ではなかったが、仮にそうだとすれば最悪だ。男の正体も分かっていない。口調からすればディオニールではないようだが、このような城で出くわす人間がまともだとは思えなかった。
「ハーサット!」
 中庭に下りた所で叫んだが、自分の声が反響するばかりで返事はない。そのまま、広場を探っていると、見慣れない石像が月光の元に晒されていることに気がついた。
 近づいてみると、悪魔のような形をしたその石像はアインガストで姿を消したフェリオ公の出で立ちそのものである。そして、その石像を挟んだところにハーサットの姿を捉えた。月光のせいか、ハーサットの血色があまりにも死体に似ている。
 アヴェリーが慎重に近づいて脈を確かめようとした時に、ハーサットが目を覚ました。
「おう、アヴェリー。早かったな」
「生きていたか」
「ああ。生かされたと言った方が正しいのかもしれない」
 ハーサットは手の中にある光の旧約を見せた。
「どういうことだ?」
「……いろいろあってな」
 ハーサットから聞かされた話は、少し前にアウベスが述べていたことと重なる部分が多かった。呪いを背負ったラスタニアの第二王子がどのようにディオニールと関わってきたのかは分からなかったが、とどめを刺したという事は穏やかならぬ関係をもっていたということだろう。
 アヴェリーはもう一度ディオニールの石像を見た。
 奇怪な造形をした死神の像が、乾いた粘土細工のように粉を吹いて、じわじわと風に浸食されている。やがて、鋼鉄の戦斧の重さに負け、石像は腰から崩れ落ちた。後に残った黒い土は、もはやただの土でしかない。目覚めた時に光の旧約が無くなっていることはもうないだろう。ハイ・メインのみならず、各所で暗躍した狂気の男は、ここでその生涯を終えたのだ。
「さて、アヴェリー。どうする?
 あの男が言うとおり、紅石を持って遠くへ逃げるか?」
 アヴェリーは苦慮した。
 合理的な選択を採るならば、ハーサットの言うとおりだが――どうしたものか。逃げようという気にならない。フィオメインを立ち去るのは難しいことではない。このまま足を城門に向けて、出ていけばいいだけのことだ。しかし、その行動に対して自責の念を抱かずにいられるかと言われれば、そんなわけもなかった。なにより、そんな決断を下すために、フィオメインに戻ってきたわけではない。
「グレナードを追う」
 出た結論は立ち向かうことだった。この戦いの終わりに向けて一斉に落ち始めた時計の砂だとアウベスが言ったように、やるべきことは退散などではない。どのような結末になるかは分からないが、逃げるよりも、ハディアを葬ることに意義がある。
 過った決断かもしれない。還元を阻止する行動とは真逆の行動をとるこの状況は、シフェルやミアスがロアンナの子を大事にしたのと似ている。子供の命に比べればはるかに軽い決断だが、世界と自尊心を秤にかけたという意味では同じことだ。
「うむ。そうしてくれると助かる」
「助かる?」
「実を言うと、俺は二度あの男に助けられている。一度目はアイシノイの森だ。あの時、蝿竜の餌食になりそうだった俺を救ったのは奴だった。だから、借りを返さねばならん。
 しかし、俺はもう限界だ。さっきから立とうとしているのだが、体に力が入らない。光の旧約で生かされてはいるが、この体はもう死人のようだ。鼓動を感じないのだ」
 ハーサットの体に触れると、言うとおりに死体の様だった。微弱な振動が周期的に訪れはするが、間隔は様に長くて鼓動も弱い。
「だから、俺の代わりに行ってくれないか?」
 浅い呼吸を繰り返すハーサットの肩に手を乗せ、アヴェリーはうなずいた。
「分かった。ここにいてくれ」
「すまんな」
「かまうな。それより、勝手に往生するんじゃないぞ」
「誰がこんなところで。俺には、まだ、エネハインでやることが山積みだ」
「そうだな」
「お前もだ。アヴェリー。終わったらエネハインに戻れ」
 それだけ言うとハーサットは目を閉じた。こらえきれずに眠りに落ちたようだった。
 アヴェリーは中庭を駆け抜けて、グレナードを追った。
 エネハインから持ち込まれたというセオン紅母石がどこにあるかなど、皆目見当がつかなかったが、途中まで見えたグレナードの足跡が迷いなく直線的に進んでいることに気がつき、もしやと思って取り出したセオン紅石がアヴェリーに手がかりをもたらせた。紅石は地面に近づけるほど輝いて見える。
 フィオメインの地下にあるのは、宝物庫だけである。踏み入れたことはなくとも、場所はすぐに分かった。周囲の人間たちほど、眠っている宝物に興味を持ったことはなかったが、今のアヴェリーにとってひときわ大きな宝物庫の扉は、禁書の堅い表紙と同じくらいの重みがある。
 扉は既に何者かの――グレナードの手によって汚されているようだった。足元には重い扉を引きずった線が弧を描いて遺され、再び懐から取り出した紅石は赤い星のごとく燦然たる輝きを放っている。
 アヴェリーは扉に手を掛けた。体重で取っ手を押し込むとガコリという音が響き、長い間眠らされていた歯車の回る重たい音とともに蝶番が呻きだした。
 宝物庫の中は闇で満ちている。アヴェリーの手に握られた松明の火がどんなに猛ろうとも、部屋の奥に潜む漆黒が光の元に身をさらすことはない。ただただ外から流れ込んだ空気に反応して、腐りかけの香草を燃したような湿気を泳がせるばかりだ。
 悪臭に堪らえきれずに腕を鼻に当てて奥へ進むと、床が黒く抜け落ちているところがあった。つい最近拵えたかのような傾斜の急な階段が、周囲の造形との釣り合いを無視してそこにある。煉瓦を乗せず、軟土をそのままくりぬいて作られた階段には、一つも余すことなく出来立ての足跡が乗っていた。
(ここか――)
 もはや松明よりも赤い紅石を手に、アヴェリーは階段を下った。
 土埃とカビの匂いが一歩を踏むたびに濃くなる。そこに混在するきな臭さがここに至るまでの徒労を忘れさせ、緊張の最前線へ導くと同時に、階段は下に進めば進むほど蛇の食道の様でもあり、二度と戻れないような恐怖を抱かせもした。やがて、地獄へ連なる階段は、焼ける程に赤い部屋にたどり着いたところで終わった。
 目の前に待ち受けていたのはセオン紅母石であった。人の背丈をはるかに超えたそれは母石と呼ぶよりも、もはや岩である。岩は小さな石の破片をつなぎ合わせて形成されていることが遠目にもよく分かった。つなぎ目は黒い線となって、心臓に絡む毛細血管のような模様になっている。アウベスの話によれば、その小さな石の一つ一つがハイ・メインの王族たちの血によって、紅母石に還元されたものということになる。言い換えれば、これはディオニールが犠牲にしてきた命そのものであり、松明の灯りが無ければ漆黒と同じぐらいに色濃いこの深紅の石は血の結晶体なのだ。
 注意深く見ると、紅母石には三か所の隙間があった。還元まで残り三つということなのだろう。そのうち二つの欠片はアヴェリーが持っている。
「どいつもこいつも。エネハインは命知らずな気質なのか?」
 暗がりから声がして、アヴェリーは飛び退いた。現れた男の正体は、外套から見え隠れする腕の包帯が告げていた。
「それとも、子狼特有のものか?」
 アヴェリーの視線に気づいたのか、グレナードは左腕をここぞと晒した。
「何をしにきた?」
「決着をつけるためだ」
「馬鹿め。逃げろと忠告をしたはずだ」
「分かっている。だが、私はハディアと戦わねばならない」
 グレナードは顔をしかめた。
「ハディア?」
「ディオニールが遺した奈落の底の神の意志を持つ魔女だ」
「……ほう。経緯はよく分からんが、それが本当ならば、なおさらこいつをどうにかしなければならんな」
 グレナードは紅母石に向きあった。
 紅母石がその奥に何かを胎動させて輝いている。火の揺らめきによる幻影に違いなかったが、アヴェリーはその怪しい輝きの中に魔竜の影を見た気がした。
「しかし、空しいものだ」
 唐突にグレナードが言った。
「結晶封印はラスタニアの秘術だった。こんな使われ方をするものではなく、魔族をうち滅ぼす力を持てない我ら人間たちが、せめてその活動を封じようと考え、編み出した技法だったはずだ。それが、あの爺のせいで将来に危険を及ぼす火種となってしまっている」
 結晶石に映ったグレナードの瞳は悲しげだった。石の中に故郷の情景を思い描いているようにみえる。アヴェリーはその後ろ姿にこの男が背負っている責任を見た。グレナードはディオニールを宿敵として追っていたわけではなく、ラスタニアのけじめとして封印石の行く末を見守ってきたのだ。そして、今、封印結晶の中には還元を心待ちにする魔竜の影が踊っている。
「……どうにかできるものなのか?」
 アヴェリーは声をかけた。
「さてな。だが、できる限りのことはやらねばなるまい」
 グレナードは左手に剣を持った。
「俺はそのためにここに来た」
 グレナードの左腕の包帯の下に炎のような光が揺らめいている。
 アヴェリーは松明をグレナードに近づけた。封印石は堅剛な結晶体である。アヴェリーの剣の腕では歯が立ちそうになく、矢など論外だ。情けなくもあるが、できることとは明かりを提供することぐらいである。
「ふっ。気が利くな。……場合によっては、この一帯が吹き飛ぶかもしれんが、覚悟はできているな」
 臨むところだとアヴェリーは応えた。
「私とて見物に来たわけではない」

続く