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リルジャの足枷

LVI.神との契り(2)

 グレナードの手でゆっくりと剣の鞘が払われ、左腕の包帯の下に橙色の筋が浮かび上がる。それに応じて、巨剣の刃も熱した鉄の色に移ろいだ。
 アヴェリーはその様に括目し、同時に知った。包帯の下に隠されているのは肌ではなく、石化した無機質な腕であり、さらに腕は一つの裂け目もなく剣とつながっていることを。
「その剣は何だ?」
「お前のお仲間にも同じことを聞かれた」
 グレナードが鼻で笑った。
「かつての戦いで切り落とされたカディルの手が握りしめていた闇を統べる者の剣、ベイレオハルトだ」
 グレナードは剣先を跳ね上げると刃が落ちる勢いをそのままにして、紅母石に斬りこんだ。地下洞を揺るがすほどの衝撃が発したように思えたが、カディルの剣が砕けることも、魔竜の結晶石が砕けることもなかった。わずかにベイレオハルトを受け止めた紅母石にひびが生えている。それを見逃さずにグレナードが加えた蹴りによって、いくつかの欠片が母石からこぼれはしたものの、それらが地面に着く前に、時をさかのぼる様にして元に戻り、ひびも薄れて消えてしまった。アヴェリーの懐にしまった紅石が、その動きに合わせる様にして袋の中で暴れる。結晶石自体が魂を持つ何らかの生物のようであった。
 地下洞を響いた衝突音が収まるのを待たず、魔剣の主がうずくまった。グレナードの左腕を覆う鱗のような石の表皮は先ほどよりも広がりを見せ、もう少しで心臓のあたりにまで届こうとしている。額に浮かぶ玉のような汗は、決して松明の熱によるものではないだろう。グレナードはアヴェリーの視線に気づくとそれを外套の下に隠して、「そんなことだろうな」と強がるように呟いた。
「その剣を使い続けるとどうなるのだ?」
「さあな」
 知らないと言うよりも、知っているが教えないというようだった。
「それよりも、どうやらこの剣でも、封印石を根本から砕くというのは無理なようだ。お前。何か策はあるか?」
 訊かれたところで、首を縦に触れるような答えはない。
「ない。あるとすれば、私が持っている欠片をできる限り遠くに運ぶことだろう」
「懸命だな。その通り、この先やれることはお前が持っている二つと俺が持っている二つを、ここから遠ざけることしかない」
 グレナードが剣を納めながら踵を返し、階段を上り始めた。アヴェリーは紅母石を見遣り、後に続いた。
 言葉を発することなく、アヴェリーは歩いた。結晶石の妖しい輝きの中に魔竜の胎動を眼にした余韻が残っていたのか、体の中に潜熱というべき暑さが感じられる。普段は気にかけることのない火照りだったが、その時は妙に気になった。頭に乗った枯葉と同じように無視して歩くこともできるのに、体温そのものが己を感じろと言わんばかりに主張しているのだ。アヴェリーが感じていることと同じことが前を行くラスタニアの第二王子にも言えるのだろうか。二人の足並みは動揺を現すようにして、早くなったり遅くなったりした。
 その浮ついた感覚を引きづったまま歩く内に、アヴェリーは気づいた。この感覚は石を見た余韻でも潜熱でもない。ひとえに悪寒である。より簡潔に言えば、危険を告げるアヴェリーの本能だ。
(ハディアはもう、近くまで来ている――)
 グレナードがテラスに出た所で立ち止った。目の前には白銀の月が浮かんでいる。真円の中に潜む影はアヴェリーの抱く悪寒に似ていた。人ならぬ邪悪な気配を近くに感じるのだ。アヴェリーは静かに弓を取り、どこへでも放てるように矢を挟んだ。アヴェリーに目配せをした後で、グレナードも背中の剣にゆっくりと手を伸ばす。
「ハディアとかいう女はどんな力を持っている?」
「……意のままに火や水を操る。それと、ハーサットが斧で切りこんだが傷一つつかなかった」
「なるほど」
 グレナードは黙った。どういう戦術を立てたのかは知らないまま、アヴェリーの戦いは始まった。
 最初に迎えた敵は静寂であった。
 テラスには実の成らない一本の広葉樹が植えてあるが、風のない天候のお蔭で葉のすれる音すらしない。耳を澄ませば流星が消滅する音すら聞こえそうなぐらいの静寂が、かえって耳に痛いほどだ。生物の神経が静寂を聞くために造られていないことを聴覚が訴えるようでさえある。
 その不向きな神経が極限まで張り詰めたときに、アヴェリーは一つの音を聞いた。幾度となく聞かされてきた、蝿の羽音だった。
 その小さな音から察するや否や、大きな音を立てて上階の壁が決壊した。
 落ちてきた煉瓦の塊をグレナードの剣が一閃し、二分する。瓦礫の隙間から覗ける夜空を遮るようにしてヴェルゼルスが降りてきた。アイシノイで対面した蝿竜と同じくらいの大きさである。
「こっちだ! 化け物」
 グレナードがヴェルゼルスを誘って動く。
「お前は先に逃げろ! こんな化け物ごときにやられる俺ではない」
 足手まといと言わんばかりにグレナードがそう指示する。ひどい言われようではあるが、誤った考えではない。このまま残って戦ったところで、万が一紅石を失ってしまえば、闇の者たちの思う壺だ。今持っている紅石をできるだけ遠ざけ、還元の時を遅らせることを優先させる必要があるというのは、さっき話したばかりである。
 しかし、逃げるべきは紅石を持つグレナードも同じである。なにより、ここに現れたヴェルゼウスはハディアの放った一番槍のはずだ。ここで二手に分かれるのはハディアにとって好都合になりかねなかった。
 アヴェリーは松明の火を数本の矢に移して火矢を射た。アイシノイの森では、蝿たちが巻き起こす旋風に邪魔をされて、矢の威力を散々殺されたが、ここには開けきった空がある。蝿がどんなに動き回ろうと、降り注ぐ矢の威力の源になる重力の邪魔はできない。
 火矢は天からの裁きのようにヴェルゼウスの胴を貫き、その腐った体を燃やした。小さな炎ではあったが、蝿竜の体を燃やすには十分な火力になった。
 のたうつ蝿竜の向こうでグレナードが呆れている。
「なぜ逃げない?」
 逃げるわけがない。ここへ至るまでに味わった何度もの危機のなかに、死を意識した瞬間はあった。しかし、怯えて逃げだしたことは一度もない。なんであれ駆け抜けてきた結果がこの場所なのだ。それに、アウベスは言っていた。ディオニールは大きな過ちを犯している、と。尋ねそびれたその言葉の意味は分からないが、今こそがすべてに終止符を打てる時なのだ。それが分かっているからこそ、アウベスは自分をここへ送り込んだはずだ。そうならば、なおさらのこと恐れを抱いて逃げている場合ではない。
「……逃げるつもりだったら、最初からここには来ていない」
 アヴェリーはさらに矢を頭に打ちこみ、蝿竜をしとめた。
「そうかい」
 それでは物足りないと言いたげに、グレナードが燃え尽きるヴェルゼルスの胴体から頭を切り離す。竜の躯に群がっていた蝿たちがばらばらと解けるように飛ぶと、腐肉の焼ける強烈な異臭と白骨だけが残った。
「しかし、現れんな」
 辺りを見回しながらグレナードが言った。
 確かに今の蝿竜は間違いなくハディアの差し金だろうが、ハディアらしき姿はない。
「まだここへ着いていないのかもしれない」
 答えながらもアヴェリーの思案は疑問と共存していた。アインガストからアイシノイの蝿竜を操った時とは違い、今倒した蝿竜には操魔の石が埋まっていない。いくら力を取り戻したハディアが石ではなく蝿を媒介にしていたとしても、蝿一匹が遠く離れたアインガストからフィオメインまでの距離を飛んできたとは思えなかった。それに、アヴェリーより力で勝っていたハディアが一体のヴェルゼルスで奇襲を仕掛けるというのも不可解だ。しかもこのヴェルゼルスは、二人掛かりだったせいかもしれないが、アイシノイで対峙したものよりも弱く思える。
 何かがおかしい。何かを見落としている。先ほど覚えた体の悪寒はこんなものが要因ではないはずだ。
 アヴェリーは周囲を見渡した。ヴェルゼルスの体から散った無数の蝿が、二人の周辺を徘徊している。母体を失った子虫が辺りをさまようのは当たり前の様でいて妙だった。アイシノイの森でアヴェリーが目覚めた時のことを思い出せば、蝿竜の亡骸はあの時と同じ様相でも、あの時は既に蝿など飛んでいなかったはずだ。もちろんアイシノイの時とは時間の経過が違うのかもしれないが、この蝿たちはいつまで立っても離散する様子が無い。
 ハディアの言葉を引用するならば、蝿竜は竜に力があるのではなく、蝿に力があると言っていた。そしてその蝿は、ハディアの使い魔でもある。つまり、この小虫の行先はハディアの意志が赴くところであるはずだ。古都において、蝿は次の死骸を探し求めて飛び回っていた。ただ、アヴェリーはハーサットを見つけるまでの間に城の中を徘徊したのだが、死体が隠されているような臭いはしなかった。
 可能性を探っていると、アヴェリーの目の前に一匹の蝿が飛来してきた。蝿はアヴェリーの視線を誘うようにして右左に飛び交うが、離れようとはしない。うっとうしくなって手で払いのけようとすると、その動きを見透かしたかのようにして飛び去って行ったが、すぐに別の蝿が近寄ってきて、アヴェリーをからかうような動きを見せた。
「おい! それは何だ?」
 突然、アヴェリーを遠巻きに見ていたグレナードが声を上げた。視線に誘われてみると、アヴェリーが身に着けている胴当ての左わきに穴が開いている。体には届いていないが、腐食してできたような穴だった。
 ぞくりとして、アヴェリーは慎重に懐に手を伸ばした。指に当たったのは、一匹の蝿だった。ヴェルゼルスの周囲を飛び交っていた蝿が、アヴェリーの懐から出てきたのだ。潜り込んだのは間違いなく、今の戦いの最中だろう。懐にしまっていたはずの二つのセオン紅石は消え失せていた。
「しまった!」
 アヴェリーの声に、それが自分にも当てはまると気づいたグレナードが腰袋を探ったが、そこにも大きな穴が開いている。
 今二人の前で朽ち果てているこれは、囮だった。ヴェルゼルスなどという一度はアイシノイで敗れた魔物で二人を相手にするつもりは最初からなかったということだ。注意をひきつける的となりさえすればよかった。その隙に蝿を遣ってセオン紅石を盗み出すことが、ハディアの狙いだったのだ。
 ヴェルグールを封じる残り四つの紅石を盗み取った今、ハディアは紅母石の前にいるにちがいない。封印された魔竜をこの世に蘇らせるつもりだろう。
 二人は顔を合わせもせず、空に浮かぶ月を置き去りにするほどの速さで走った。

続く