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リルジャの足枷

LVII.神との契り(3)

 宝物庫の扉は開け放たれていた。こじ開けたというより、内側から吹き飛ばされたような形跡がある。忍ぶようにして中に入ってみると天井には空まで通じる穴が開いていた。床に散った金銀は月光を照り返し、その反面、土でできた例の階段は一層黒く空いて見える。その穴の奥から身の縮むような妖気を感じられた。
 二人は慎重に下へと足を運んだ。先ほどよりも一人増えているというのに、余裕がまるでない。ネラクの庭園では手も足も出せなかったハディアがそこに居ると考えると、松明を握る腕すら冷ややかに感じられた。心は、これが最後の決戦だと自らを鼓舞しているが、どのような意味で最後となるのか、判然としないままだ。
 手元に握りしめた炎の揺らぎに似た覚悟を秘めたまま、アヴェリーはセオン紅母石の前に立った。再び目にした赤い光の前には、それを愛おしげに撫でる魔女が立っている。
「またしても、お前か」
 紅母石に頬を当てたまま、ハディアがこちらをちらりと見た。
「我の前に二度以上顔を見せた人間は、お前とディオニールぐらいのものだ」
「石から離れろ! ハディア!」
 アヴェリーは矢を掴んだ。
「止めておけ。無駄にするだけだ」
 グレナードがアヴェリーを制して前に出る。
 見慣れぬ男の顔に驚いたのか、ハディアの意識がようやくこちらに向いた。ハディアとグレナードの視線が交錯し、品定めをするようなハディアの視線は、やがてグレナードの剣で止まった。
「なるほど。魔剣の虜という事か。……しかし、何を持ち出したところでこの力は止まられはせぬ。見るがいい、この結晶石を。
 可愛いヴェルグールの嘶きが今にも聞こえてきそうではないか」
 ハディアが紅母石を愛でる。先ほど見た時に浮かんでいた黒い結合の跡が一層活気づき、餌を求める雛鳥のように色めいている。結晶の内側に見えるヴェルグールの影は胎動しているようだった。
 弓を番えたまま隙を伺っているアヴェリーだが、ハディアを前にして付け入る隙が無い。アヴェリーとグレナードの気配を絡め取る見えない蜘蛛の糸が四方に張り詰められているかのようだ。
「感心したよ、アヴェリー。ここまで追って来るとはね。
 どうやった? そうか、時の旧約を使ったのか」
 ハディアがアヴェリーを見据えて笑う。泣き叫ぶ赤子をあやす微笑みではなく、痛がる赤子に追い打ちをかける悪魔の冷笑だ。
「だとすれば実に罪作りだ。誰の寿命を犠牲にしたのか知らないが、その努力も水の泡ということになろう」
 アヴェリーは耳を貸さなかった。ただひたすら矢じりをハディアの眉間に合わせ、戦いが始まる瞬間を待ち続けた。
 ハディアがゆっくりとセオン紅母石から離れる。
 此方に向けて晒されたハディアの手には四つの紅石が乗っていた。その一つ一つが互い違いに帯びる赤い光はハディアの手に生えた四つの眼のようだ。
「さあ、還元の時だ」
 四つのセオン紅石がハディアの手を離れ、互いに交差する軌道を描いて紅母石に吸い込まれていく。
 アヴェリーはハディアに向けていた矢を素早く絞り直して石を狙って放った。しかし、石は数本の矢の軌跡の間を縫うようにして飛び、また間に飛び込んだグレナードが伸ばした手もするりと抜けた。石を制御しているのは重力などではなく、ハディアの念動力に他ならなかった。アヴェリーもグレナードもその瞬間を見届けることしか出来なかった。
 紅母石の欠けていた四か所にそれぞれの石が埋まった。全体を覆っていた血脈のようなひびが内側から起こった強い光にかき消され、石に宿っていた血色の光が紅母石の中心に流れていく。そのすべてが結集して一つの塊となった後、何事もなかったかのような一拍の静寂を置いて、ぐらりと地面が揺れた。
 同じ揺らぎがアヴェリーの胸中にもあった。目の前で実行されていく還元に焦燥していた。これでは還元を成すために戻ってきたようなものだ。アウベスがすべてを見通していたとしても、ヴェルグールがよみがえることを期待するわけはなかったはずだ。
 フィオメイン城の地下を襲う微細な振動の中で、結晶石の中に巨大な蜘蛛のような影が形成されている。影は紅色を吸って少しずつ大きくなっているようだ。それこそがディオニールの仕掛けた血の解放である。影の蠢きに合わせるように足元から伝わる振動も激しくなり、振動が水晶にひびを入れる。
 もはや止めようがない――。
 アヴェリーの手から矢が零れ落ちた。
「ひるむな!」
 グレナードがアヴェリーを一括し、ベイレオハルトの鞘を払う。結晶石に斬り込んだが、さっきはひびを入れた一撃が今度は石に触れた瞬間に弾かれ、グレナードはアヴェリーの後方の壁に埋まるほどに吹き飛ばされた。
「あはははは!」
 ハディアが腹を抱えて笑う。
「魔剣が頼りか? それとも、得意の旧約とやらで戦うか?
 いずれにせよ無様なものだ。人間は自身の力では戦えぬ。我が闇の王にくれてやった魔剣に頼るか、アンクレット・アークの力に頼らざるを得ぬのだ。
 だが、ベイレオハルトなどでは魔竜に傷を負わせることなどできはせぬ。旧約に頼れば、いずれ破滅を招く。いずれにせよ、貴様たち人間に明るい未来など無いということだ」
「どういう意味だ?」
 土壁を崩しながら出てきたグレナードが言った。
「旧約とアンクレット・アークがどう関係する」
「ふん。何も知らないというならば、教えてくれよう。旧約と神<アーク>の関わり合いを」
 ヴェルグールの封印結晶は刻々と様相を変えていくが、城よりも大きいと言われる魔竜の巨体が現れるには時間がかかるのだろう。これはハディアの時間稼ぎだとアヴェリーは察したが、グレナードは神妙な顔つきで魔女の言葉に耳を貸している。苛立たしく地面に突き立てたベイレオハルトには何者にも介入を許さない威厳があった。
「お前たちが旧約と呼ぶ力の根源はアンクレット・アークそのものだ。
 全ては忌まわしき知恵の神、リルジャの仕業だった。力のない人間などに慈悲を与えるなどというくだらない口実のために、十の神に足枷をつけてレフェスに縛りつけた。それもただの足枷ではない。
 アヴェリー。お前なら分かるだろう。封印とは長き眠りに過ぎない。ただ封じていれば、いずれ復活する。我が徐々に力を蓄え、リーニスの体を奪って逃走したようにな。
 先見の神でもあったリルジャはそれを見越して、魔法の足枷を拵えた。神々の力を奪い、人間に使わせるという外道の力を持った足枷をだ。それが、アンクレット・アークの始まりだ。そして、云わばそのアンクレット・アークとの契りをお前たち人間が旧約と呼んでいるのだ」
「……何だと」
「我々との最初の戦いの折に、お前たち人間は旧約の力で我々を阻んだ。今に至ってもなお、我を女児の体に封じ込めたのはその力だ。
 これから蘇るヴェルグールを、かつてのように旧約の力で押しとどめようとするならば、それも良いだろう。人間は我々の力を借りずには生き延びることができないという証明をするだけのことだ。だが、話のついでに一つ忠告しておこう。
 リルジャはいずれ旧約が廃れて行くと考えていた。人間たちが力を蓄え、足枷の力を必要とせずにアンクレット・アークを抑え込む日が来ることを期待していたわけだ。しかし、今のところその予測は外れている。お前たちは相も変わらず旧約に頼ることを止めようとしない。今は毒を以って毒を制したつもりでも、それは何の発展ももたらさぬ。
 そして、人間が契りの力に胡坐をかいている間に、旧約の証は錆びついてきた。リルジャの拵えた足枷がいかに頑丈に造られていても、人の手を渡り歩く契りの証はそうできていない。中には崩れ去る寸前のものもあるかもしれぬ。
 もし証が失われれば、リルジャの拵えた足枷はただの飾りだ。レフェスの各地の遺跡に幽閉されたアンクレット・アークたちは力を蓄え、いずれ自力で足枷を外すだろう。その時には、真の意味で貴様らの存亡が問われる」
 天井が土を落しはじめた。このままでは城の地下に生き埋めになるのも時間の問題だ。
「さあ、時は満ちた。我が魔竜は簡単に止められはせぬぞ。その魔剣と旧約でせいぜい足掻くがいい」
 ハディアの手が閃光を抱く。目がくらむほどの光は一瞬にして一点に集約され、ハディアの頭上に噴き出した。天井には星空が見えるほどの穴が開いている。
 ハディアを取り巻く青白い陽炎を挟んで、アヴェリーとハディアの視線がぶつかった。先ほどまでに見せていた高慢な嘲笑は片鱗もなく、鬼の顔を孕んでいる。
 アヴェリーは急かされるようにして木の矢を放ったが、辺りに残った余熱が蒸気の壁を張り、矢は瞬時に木炭となってハディアに届く前に蒸発した。切り替えて放った鉄の矢すら、赤くなるほどに熱を帯びて蒸気の層を渡るうちに鉄のつぶてに変わり、ハディアに当たっただけである。
 矢のような一点の力では陽炎の壁を崩せない。空気を動かすにはグレナードの大きな剣が役に立ちそうだが、先ほどのハディアの発言の何に衝撃を受けたのか、アヴェリーが叫んでも声が届いていない様子だ。アヴェリーの剣はどちらかと言えば細身だ。矢の軌道よりははるかに空気を動かせるが、刃が熱を帯びるまでにそれができるだろうか。
 その迷いが隙になった。
 陽炎の奥から突然現れたヴェルグールの腕にアヴェリーは突き飛ばされた。イミールに喰らったものよりもはるかに重たいその一撃は、もし後ろに待ち構えていたのが土の柱でなかったら、二度と立ち上がれなくなるほどに強烈だった。
 劣勢になったアヴェリーを見逃さず、ヴェルグールの爪が襲い掛かる。人間を一掴みにするほどの巨大な指は、肉に当たる部分が虫で構築されている。ヴェルゼルスのような蝿はもちろん、蜘蛛に百足、甲虫、羽虫と、ありとあらゆる節足動物が混在し、ともすれば蠍さえもまぎれていそうだ。もし、その怪奇現象のような腕に掴られていたら、蝿竜の腹に飲み込まれた時のように命を吸い上げられていたことだろう。
 阻止したのはグレナードの魔剣であった。ベイレオハルトが魔竜の手を貫いたというよりも、虫たちが魔剣を嫌って逃げたといったほうが的確な表現ではあったが、ヴェルグールが身を縮めたのは紛れもなく魔剣の力によるものだ。あらゆるものを滅ぼすという剣の力はヴェルグールにとっても恐れられるものらしい。
 土煙と陽炎と数多の虫が入り乱れ、不穏な空気の淀みが生じている。その向こうにいたハディアの影は、羽虫の群れが横切った直後に消えた。真上に開けた穴を見ればどこから脱したかは考える余地がない。
 追わねば――。
 アヴェリーは周囲を確認した。ヴェルグールの体はどんどん肥大化しているが、まだ完全ではないはずだ。山をも越えると語ったアウベスの言葉を信じるなら、いずれ城はおろかフィオメンの城下一帯も吹き飛んでしまうことだろう。
「ここを出よう」
 二人はヴェルグールの追撃を魔剣でしのぎながら地下洞から撤退した。

続く