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リルジャの足枷

LVIII.神との契り(4)

 宝物庫の一部は、さきほどハディアが放った魔法と地震の揺れによって崩れ落ちていた。ハディアは一気に外にまで飛んで行ったらしい。穴はさらにその上へと続いている。
「……逃げられたか」
 アヴェリーは走りながら落胆した。
「いや。どうかな」
「この付近にいるというのか? 何のために?」
「高みの見物というやつだ。自尊心が高くて、人が苦しむ姿を愛してやまない奴は、だいたいそうする」
「……なるほど」
 二人が宝物庫を抜けたところで、先ほどより大きく地面が揺れた。振り返るとついさっき駆けあがってきた階段を濃密な羽虫の群れが埋め尽くしていて、大海の魚群のように折り重なって巨大な竜の爪の形を成している。ヴェルグールが地上へ這い出ようとしているのだ。早めに城を抜け出さなければ、瓦礫とともに魔竜に飲み込まれてしまう。
 その事態の中、急にグレナードが立ち止った。
「先に行け」
 秘策があるとでもいうのかと思ったが、グレナードの表情は鈍い。
「どうするつもりだ」
「魔竜も所詮は生き物。瓦礫に埋まればどうしようもあるまい。真の姿にまで成長する前にここで潰す」
「何を言っているんだ。そんなことをすれば崩落に巻き込まれて死ぬぞ!」
「それが俺の役割だ」
 グレナードが呟いた。微かな声だったために、大きな地響きの背後に隠れてアヴェリーの耳には届かなかった。
「今、何と?」
「……ベイレオハルトというのは厄介なものだ。手放せば左手から朽ちて死ぬし、握り続ければやがて石像と化す」
「何故そんなものを手にした」
「アンクレット・アークを従えるためだ。
 この剣を持つ者は魔の力を手に入れる。リュテア語を聞き分け、話す言葉だ」
「足枷の神々と魔族の言語に何の関係がある」
「リュテア語は魔族の言語などではない。元はと言えば神々の言語だ。もっともヘレのみが操る言葉となった今は、魔族の言葉と言えようがな。
 俺も兄も、ヴェルグールを止めるにはアンクレット・アークを従えて戦う必要があると考えていた。そのための手段がベイレオハルトだったわけだ。リュテア語が話せれば、アンクレット・アークを従えることも無理ではない。この剣が唯一の手段だと考えていた」
「ならば、なおさらのこと今は生き延びねば……」
 グレナードが首を横に振る。
「ハディアの言葉を聞いたろう?
 アンクレット・アークの力を手にするとは、神を従えることではなかった。アンクレット・アークの力は旧約<シラク>そのものだったんだ。ヴェルグールを止めるのに必要はなのは、旧約だった。この剣ではなく、な。
 今の俺には旧約の真価を引き出せない。旧約は人間にのみ与えられた切り札だ。今や、俺の躰は魔剣の反力で魔族同然の躰になっちまった。人間にのみ恩恵を与える旧約を俺が使いこなすのは無理だ」
「しかし、ここに残って何になる!」
「……この呪われた躰とともに、魔竜と心中する。それならば本望だ」
 宝物庫の壁が軋み始めた。地下で体積を拡げる魔竜の体が城の基礎を圧迫し、その上に積み上げられた壁や天井が歪んできているのだ。今、天井の一部が崩れてアヴェリーとグレナードの間に山を築いた。
「お前はあの女を探せ。お互い、けりをつけるためにここに来たんだろう?」
「馬鹿を言うな。死ぬことがけりをつけることか?
 生き延びてこその決着だろう!」
「確かに。では、首尾良く事が運んだら、その時はまた会おう」
 瓦礫の向こうでグレナードが背を向けた。その背中に、背負いこんだ<死>の一文字がありありと見える。生きて帰ることを恥という古い考えを持った老兵の背中ではない。己の死に場所に魂を掲げに向かう手負いの獅子の背だ。
「待て!」
 魔剣士の背中へ向けた張ったアヴェリーの声は、再びの天井の崩落音に邪魔された。土埃の向こうにグレナードが遠ざかっていく。天井に開いた穴から漏れる外の光がヴェルグールに挑む男の背中を断片的に映し出し、その度に形を変える黒い外套は踊っているようにみえた。
「……命知らずとはどっちだ」
 最初に掛けられた言葉を思い出してそう呟いたが、崩れ続ける城が感傷に浸っている余裕がないことを告げる。アヴェリーはグレナードが光の届かない暗闇に消えるのを見届けると、地下を抜ける階段へ急いだ。
 フィオメインの城と都を含む全てが空へ飛び立ちそうなほど、激しく振動している。回廊に並び立つ甲冑が次々と倒れ込み、空っぽの鉄仮面がいくつも床を転げた。壁に掛けられたささやかな燭台の蝋燭刺しですら、アヴェリーの首を狙う凶器である。そして、それらの天変地異のような状況から必死に逃げ惑うのは鼠も蝙蝠も同じだった。唯一、その中に括れないのが虫である。蛾も蜘蛛も、皆一様に地下へ向かっている。山岳の清水が低い海へ向かうように、あらゆる節足動物がヴェルグールの元へなだれ込んでいくのだ。
 宝物庫の方角からは、幾重もの虫の鳴き声が重なってできた不気味な声が聴こえる。まるで、あらゆる人種の人々が耳下でささやくようだ。そのうちに、アヴェリーの鼻が死臭を嗅ぎ分けた。ヴェルグールが虫を引き寄せるための匂いだろう。不気味な音と耐え難い悪臭が、実態のない手でアヴェリーの肩を掴み、足首をもぎ取ろうとする。人ならば誰もが恐れるだろう濃密な闇が、虚像を超えて実像に化け、城のいたるところを徘徊しているような錯覚を覚えた。
(グレナードはヴェルグールに敗れ去ったのだろうか)
 アヴェリーは後ろを振り向いた。ただ振り向いただけであるのに、回廊の闇は深い井戸を覗き込だような閉塞感がある。
(いや、あれほど無謀を承知で飛び込んだ男が、やすやすと魔竜に食われるはずがない)
 すぐに頭を振って負に傾いた思考を振り払う。どうなったのかは気になるが、信じるしかない。地下洞で虫の群れが魔剣を嫌ったことは自信の眼で確かに見たのだ。きっとベイレオハルトが何かしらの功を奏しているにちがいない。それに、万が一、悪い方に事が運んでいたとしても、道を戻ることは許されないのだ。
 アヴェリーは崩落する壁を避け、後ろに引きずられる自分の影を引きちぎるようにして走り、半ば導かれるようにして回廊に出た。忘れもしない、イミールが蘇った広場につながる長い回廊である。アステロイが殺され、結果的にステファンもが処刑されたのはずいぶんと昔の様で、たった二月前の出来事だ。
 あの時はこんな状況になることを知る由もなかった。シフェルの命により、セオン紅石をイミールに埋め込んで騒ぎを起こした張本人を見つけ出すためにフィオメインを出奔し、リーニスの協力を得るためにアインガストへ向かったのが旅の始まりであった。そして、待ち受けていたのがミアスである。
 その先は驚きの連続だった。十六年以上も前から始まっていたシフェルとミアスの宿命の中に身を投じることになったことは振り返るのも早すぎることだ。しかし、二人の宿命に巻き込まれたと考えるのは、間違いだろう。
 ハディアにディオニール。人間と魔族の戦いの後に残った負の遺産は、巡り巡ってエネハインに通じていた。兄弟国とはいえ、フィオメインとエネハインの両国に密接なかかわりを持つ人間は、いまやアヴェリーしかいない。この戦いの全てを終えるに相応しい人間は、自分を除いて他にいないのだ。
 それだけではない。結果だけを考えれば、リーニスの命に対する迷いがハディアの復活を招いたことは他ならぬアヴェリーの咎でもある。もちろん、これまでの自分の振る舞いに後悔はないし、反省していないこともありはしないが、それだけに今に掛ける思いが強くなった。
(今度こそ、全ての決着を付けるんだ)
 ここへ至るまでに関わってきた者たちの顔を思い浮かべながら、アヴェリーは一層力強く駆けた。目の前に広がる出口は夜明け前の薄明るい光で満ちている。崩れ落ちる回廊を全速力で走り抜け、アヴェリーは暁の元に飛び出した。全ての元凶であるハディアを、フィオメインで討つために。
「出てこい、ハディア!
 私と戦え!!」
 アヴェリーの叫び声が、藍と緋の色のせめぎ合う空に響き渡った。

続く