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リルジャの足枷

LIX.神との契り(5)

 魔竜の肉たる虫たちが魔剣を嫌うという不思議な状況がグレナードにもたらしたものは、進撃ではなく停滞であった。ヴェルグールのしかける攻撃を避けるには好都合だが、ベイレオハルトを振りかざしても空を切るばかりである。
 何一つ生み出さない攻防を続けながら、グレナードはどこかに必ず魔竜の核が存在することを感じていた。例え骨格が無くとも、命の象徴たる心臓か、魂の象徴たる頭部がどこかにある。そうでなければ、これはただの虫の群棲だ。あるとすれば、それはセオン紅母石が砕けた場所近くにあるはずだが、地下洞にはもう戻れなかった。
 アヴェリーと別れてすぐに階段を戻ったものの、それもほんの数歩のことで、その先は虫の壁になっていた。魔剣を振りかざして無理に進めば、逃げ回る虫に背後を取られて体ごと飲み込まれそうになる。足掻く内に壁はどんどん圧力を増し、グレナードは宝物庫にまで押し戻されてしまった。
 その上に、地面が揺れるたびに上から瓦礫が降り注いで、穴だらけの天井からは雨粒のように虫が落ちてくる。小虫が増せば増すほど、魔竜の妖気が増幅していくとともに、宝物庫は床が見えないほどの虫溜になっていた。
(なんだ、あれは――)
 目を凝らすと、ハディアが空けた穴から何かが突き出している。塔のような塊は翼の一端のようにも角のようにも見えた。紛れもなくヴェルグールの一部だ。ただ、ここから狙うには遠すぎる。近づくことができないなら、アイシノイの森の時のように波動を撃つしかない。
 グレナードは剣を縦に構えた。
『邪剣を携えし者よ』
 いざという時に、篭るような声がした。
『邪剣を携えし者よ。何故、儂に牙をむける』
 誰かと訪ねる必要はない。聴こえてきたのがリュテア語だからだ。ヘレの声ではなしに、人間が喋ることのできない言語を話すことができるとすれば、それはヴェルグールしかいない。
 グレナードは暗闇に目を見張った。
 下から突き出した角の根元に赤い光が見える。昆虫の中には雌や餌を引き付けるために光を放つ種類もいるが、その類の光ではない。禍々しさが混在している紅い光は、ヴェルグールの眼であった。幾千万の虫が飛び交うその中に魔竜の視聴器官が見え隠れしている。
『儂とともに歩め。うぬにはその資格がある』
「ふっ」
 グレナードは噴き出した。
『……何がおかしい』
「傀儡も言葉を喋るのか」
『儂をからかうなよ、小僧。お前の生き死には儂の手にあるも同然なのだぞ』
 それを証明しようと言わんばかりに、地面から黒い塊がせり上がり、四本指の手の形を成す。
「ふん。俺を握り潰すつもりなら、さっさとやればいい。
 だが、そうもできないのだろう。ベイレオハルトの何を恐れているのか知らないが、どうやら魔竜といえども、たった一本の剣には敵わないらしいな」
『恐れてなどおらん。儂に集う虫たちは皆、かつて魔族であった者たちの生まれ変わりだ。王の剣に敬意を払い、避けて通るにすぎぬ』
「へえ。だが、その王の剣も今は人間の手にあるということか。魔族にとっては大きな損失だな」
『……ベイレオハルトはただの足がかりよ。
 人間はいずれ脅威を感じるであろう。神ですら砕くことのできなかったレリクスの脅威を』
「……レリクス?」
 グレナードの問い返しには答えなかった。その代わりに、紅い眼の下に現れた口が厭らしい笑みを浮かべた。
『魔剣を携えし者よ。我らに歩み寄るつもりがないのであれば、これまでだ。儂の復活を祝う晩餐となれ』
 宝物庫の地面に規則正しく張り詰められたタイルが踊りだした。足元から大きな振動が伝わってくる。やがて一つの炸裂音とともに宝物庫の床が崩れ始めた。床の下に見えた黒くうねる虫たちの姿は新月の海そのものだ。際限なく暗黒が暗黒を飲みあい、別の暗黒に転じて派生していく。
 その渦の中に、フィオメイン王家が長い時間をかけて収集した、あるいは献上されてきた金銀の財宝が飲み込まれていった。互いに擦れ合って立てる音は、魔獣が骨をむさぼるようであった。
 グレナードは格子状に残された城の基盤を跳ね、中で最も安定した場所を探してそこに移った。ロングスピア一本分の縦横を持つその場所は戦うには十分だが、ヴェルグールの眼からは更に離れてしまった。アヴェリーの弓ならば十分に射程範囲だが、ベイレオハルトでは波動を放ったとしても論外だ。
(ちっ。ガラクタばっかり集めやがって!)
 そこに置かれていた宝物に当り散らすと、大げさな音が鳴って虫たちが飛び回った。
 フィオメインにはいくつかの旧約の証があると耳にしていたが、少なくともそこには見当たらなかった。すでに奈落の底に落ちてしまったのかもしれない。どのみちグレナードにとっては手遅れだ。
 ヴェルグールの顔がついに露わになった。左右に二つずつの眼がすべてグレナードに向いている。概形だけ見ると竜というより鳥のような長細い顔だ。ただ、眼球は爬虫類のそれであり、口角から見え隠れする牙は人間など一砕きにしてしまいそうなほど屈強だった。まだ形を形成しているだけなのか、その牙で襲い掛かってこないことが幸いかもしれなかった。
 地面から生えた魔竜の腕が何度も盤上のグレナードを襲い、その度に振り続けてきた魔剣を支える左腕が重く感じられる。筋疲労という人間じみたものではなく、肉が硬化していくせいだ。もはや人間らしい左手はなく、二度腕から先は肉と剣をつなぐ石でしかない。脇腹はもちろん、左足の付け根まで始まりつつある石化は、確実にグレナードの終わりを表していた。
 自身の最期の戦いがこんなにも早く来ようとは少しも考えていなかった。フィオメインで旧約を手に入れてレメティアの塔を登り、頂きに封じられていると言われるアンクレット・アークを従えて、その後に還元の時を迎える。少し前までは、それがグレナードの計画だったのだ。フィオメインに来たのが運の尽きだったのか。はたまた、避けようのない運命だったのか。どちらにしても、グレナードよりもディオニールの計画が成し遂げられたのが先になってしまった。今、やるべきことはヴェルグールを撃ち滅ぼすことに他ならないが、こちらにあるのは、魔剣と化した左腕だけだ。
(さて、どこまで持つかな――)
 ヴェルグールの翼が風を巻き起こす。羽虫たちが一塊となって押し寄せるのをグレナードはベイレオハルトの波動で蹴散らした。何百という虫が空中で石になって粉砕する。魔竜の一部であっても、ベイレオハルトの呪力は通じるらしい。
 呪力――。
 この緊迫した中にあってなお、ベイレオハルトを手にしたときにロキアンの僧侶が言っていた言葉が、不思議と思い出される。
  呪いの力と祈りの力は相反するもの。祈りの力とは他人への想いの力――。
  呪いの力とは、己への想いの力。いわば信念だ――。
  グレナード。お前にこの剣にかける信念はあるか――?
 あの時は即答だった。僧の言った言葉の意味を深く理解していなかったからだ。今は違った。言葉の意味が深く伝わってくる。だからこそ、今でも即答できる。
(あるとも。魔竜を滅ぼす為なら、命を捧げる。それが答えだ――)
 グレナードはほくそ笑んだ。そして、言った。
「行くぞ、相棒」
 ベイレオハルトとともに飛び込んだ先は、足元に広がる虫の海だった。
『自ら勧んで贄(にえ)になるとは、馬鹿めが。
 未来に絶望して死を選んだか!』
 ヴェルグールが歓喜の雄叫びをあげる。その声が、妙に遠くで聞こえた。腰から上はまだ空気に触れているが、辺りを飛び交う虫の羽音がグレナードを現世から遠ざけていくようだ。
 グレナードは大きく息を吸い込むと、自らの体を暗黒の海に沈めた。
 虫が放つ濡らした土のような臭いの中に、死臭が混じっている。それがヴェルグールの核、つまり内臓の匂いだ。魔竜の肉が虫だというのなら、傷つけることに意味はない。呪われた力で灰に帰しても、新たな虫が寄生するだけだ。狙いは、魔竜の心臓でしかない。
 魔剣とつながったグレナードの半身を虫が避けていく。一時的に飲みこまれることがあっても、次の瞬間には灰になって空散していった。そのお蔭で、不思議にも不自由なはずの左手が自在に動かせる。左腕に顔をうずめて空間を確保すると、五感がより鮮明に戻ってくるのを感じた。
(鼓動を聞け。悪臭の出所でもいい。本体を掴むんだ)
 ヴェルグールの力の根源を突き止めるべく、己に言い聞かせる。視界はもうない。上下左右から押し寄せる虫の大群に胸部が圧迫され、体が軋むようだ。ベイレオハルトの呪力による石化も進行し、グレナードの体は海の底に沈み始めた。
(ここで終わるのか――)
 足掻く。溺れる人間のように手足を精いっぱいに動かす。だが、動いているのは右半身の、それも手と足の先だけだ。
  ドクン――
 薄れゆく意識の中で、鼓動が聞こえた。己の体にはすでに、脈と呼べるものが存在していない。これは、間違いなく魔竜の心音だ。暗黒の中に手を伸ばすと、指先に冷たい何かが触れた。金属の塊の様なそれこそが、魔竜の肉の一部にちがいない。
『それは――!』
 ヴェルグールの思考が頭に流れ込む。グレナードは右手で己の左腕をつかみ、冷ややかな感触のあるその場所に魔剣を押しあてた。
(これで、終わりだ――)

続く