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リルジャの足枷

LX.神との契り(6)

 腐臭に釣られて飛んできた烏が暁の空を舞っている。空が刻々と色を変えるはずの時間帯なのに、時が止まったかのように静止して見えた。
「しつこい」
 円形広場の中心まで歩くと、左手から声が聴こえた。
 見ると、乳白色の朝霧を背景に黒い影が立っている。影の中にある二つの赤い眼が細くなり、ハディアがため息を吐いた。久遠を謳うような静けさが、アヴェリーとハディアの空間を切り取って、異質な世界に閉じ込める。
「魔剣の男にヴェルグールを押し付けて我を追うとは、大きな過ちだ」
「……過ちかどうかはこれから分かることだ。今、決められることではない!」
 アヴェリーがハディアの顔をめがけて一矢を放ったが、それは首の動き一つで交わされ、軌跡はハディアに見送られた。
「ふん。お前ひとりで我がどうにかなるとでも思ったか」
 もちろん、今の一矢で功を成そうなどとは思ってもいない。
 ハディアの魔法が強力なことは今までに身を持って味わってきた。かすっただけでも、ここから壁まで吹き飛ばされるほどの威力がある。だが、これまでの経験から分かったことは、その脅威ばかりではない。ハディアが魔法を放つときには一瞬の隙があることだ。その隙は、アヴェリーの弓矢なら十分につくことができる。空気を裂く矢の初速は、投石器の石とは比べ物にならないほど早いのだ。ハディアに勝つ要素があるとすれば、瞬発力に他ならない。
 ただ、忘れてはならないのは、魔女の体が斧より堅いことだ。五体を狙っても功を奏さない。狙う場所は目や耳などの神経器官か、アインガストでエリニスの体を射抜いた時に造った一点の傷しかない。
 一矢がハディアにあしらわれる間に、アヴェリーは距離を置いた。まさしく、ハディアの魔法を避けつつ、一拍の隙をつくための適切な距離である。そして、すぐに次を構える。
「……我と弓矢で戦おうというのか。いいだろう。その木造品ごと焼き尽くしてくれる」
 ハディアの指先が赤く染まり、魔女の顔が水面に移った姿のように揺らめく。地下で見せたように陽炎が生じているのだ。熱を帯びた手が払われた時、高温がこちらに向かって押し寄せるのだろう。
 アヴェリーはすぐさま矢を放った。それはハディアの虚を突いた一撃には違いなかったが、刃を立てるには及ばなかった。
 歪んだ空気の壁が朝霧を押しのけて迫る。とっさに横に跳んだお蔭で直撃は免れたものの、立っていた場所の背後にあった壁は焼け焦げて、アヴェリーの外套にも燃え移っていた。
「あはは。よそ見している場合か?」
 高らかな魔女の笑い声が響く。
 顔を上げると、次の熱波がすぐそこに迫っていた。先ほどよりも更に濃い空気の層が押し寄せる。アヴェリーは弓を握ったまま、地面を転げて避け続けた。
 ハディアの魔法を交わすことのできる距離ではあるが、ハディアはその距離を利用して、魔法を繋いでいく。短い隙をついて弓を構えることはできるものの、正確に狙う余裕がなかった。その中でもどこかで流れを断ち切らなければ、一方的に焼殺されてしまいかねない。
 がむしゃらに射続ければ、いつかハディアを脅かすことがあるかもしれない。しかし、矢筒に収めた木と鉄の矢が尽きれば終いだ。矢は都合よく落ちているわけではない。アヴェリーに残されるものは、剣と幾分かの覚悟しかなくなってしまう。
 いっそうのこと剣で切り込むか。むしろ接近戦ならば、可能性はあるかもしれない。シフェルから貰ったこの剣にかけてみるのも悪くはない。しかし、それはアヴェリーに確かな剣の腕があればの話だ。剣の稽古を怠けてきたわけではないが、弓の扱いを重視してきたのが自分である。今さら転じて上手くいくとは思えないし、その戦術は言うまでもなく破れかぶれだ。賭けに近い戦術に身を投じることは、これまでの苦労をふいにすることであり、同時にシフェルやミアス、そして、ハーサットにグレナードという多くの人たちが紡いできた糸を断ち切るのと同じことだ。考えれば考えるほど、まだ勝負を捨ててはならない。
 アヴェリーは息をつく一間を求めて、広場の一隅にあった数体の銅像の背後に隠れた。ハディアが操る高温の風はあっという間に青銅の表面を溶かし、銅像を裸にしていく。立ち並ぶ銅像の隙間から狙って放った矢はハディアの頬をかすめたが、そのまま遠くへ過ぎ去っていった。気付けばアヴェリーは矢の軌道を読まれるほどに離れていた。
 ハディアの立っている場所は最初の時から変わっていない。熱波を受けた城壁はそのハディアの位置から離れるほどの広範囲になっている。つまり、ハディアの手元で巻き起こる熱は距離が開くに連れて広範囲になるということだ。
(近づくしかない――)
 もちろん、熱波に触れればただでは済まない。しかし、ハディアの動きは単調だ。見極めることが不可能なわけではない。集中すべきはただ一点。魔女の手の動きである。
 アヴェリーはハディアの魔法を避けながら、身を軽くするために焼け焦げた外套と矢筒を捨て、残った矢を外套の切れ端で左腕に縛り、余りを口に加えた。結わいた矢が尽きる時が、アヴェリーの命の尽きる時になる。その覚悟は今さら決め直すものではない。
「……おもしろい」
 ハディアが言葉ほど面白くはなさそうに呟き、両手に光を宿した。右手の甲と左手の平を繋ぐ一本の光線が浮かび上がる。見せたのは弓兵と同じ構えだった。勝負をしようといったところだろう。
 臨むところだった。弓の同士の戦いなど経験したことが無かったが、熱波よりも軌道が読みやすい。
 アヴェリーはゆっくりと前に歩を進め、徐々に加速した。
 先にはなったのは、ハディアだった。光の矢は普通のものよりもはるかに速いが、見切るには易かった。風に任せて軌道を変える矢羽が無いために、馬鹿みたいに真っ直ぐに飛んでいく。紙一重で避けることもできたが、魔女の放った魔法の威力を踏まえてアヴェリーは大げさに避けた。――はずだった。
(なんだ……?)
 光の矢が左脇に刺さっている。アヴェリーが触れる前に空中に消え去ったそれは、アヴェリーの胴当てに穴をあけ、肉を喰らっていた。あっという間に血が噴き出し、アヴェリーの腹部が赤く染まる。
 曲がった。それ以外に考えられない。完全に軌道を外したはずの矢が脇に刺さるという事は、急激に曲がったという事だ。
「光がまっすぐに進むと思ったら大間違いだ。それが人間の愚かなところだよ。狭い知識があるばかりに、足元を救われるのだ」
 青白く光るハディアの両手は次の矢を蓄えている。
 アヴェリーは呼吸を荒らげながらも踏ん張り、ぎりぎりのところで追撃を避けた。
 出血の激しい脇腹を抑えながらも、必死に弦に矢をかけて応戦する。しかし、そのうちに指先から力が失せ、矢は失速し始めた。
 その間にもハディアの光矢はアヴェリーを追い回すように曲がり、野兎を狙いまわす鷹のように上下左右から自在の動きを見せる。初めのうちはアヴェリーをいたぶるように飛び回っていた矢も、焦れて来たのか直接に急所を狙うようになり、アヴェリーの体は生傷を増やしていった。
「終わりだ」
 ハディアの声とともに、左足に光の矢が突き刺さった。
「うっ!」
 見た目とは裏腹に鈍い音がして、アヴェリーは喘いだ。矢は膝上の関節を砕いている。傷口は痛いというよりも熱かった。左足の神経が根元からつま先まで焦げ付くようだ。這いつくばって見た地面には、アヴェリーが逃げ回った痕跡を示すようにして血痕が散らばっている。その上を辿る様にして、ハディアが勝ち誇った顔で近づいてきた。
「終いだね、アヴェリー。無駄には終わったが、旧約に頼らずに独力で戦おうとしたその努力に免じて、綺麗な灰にしてやる」
 ハディアが何かを呟きながら手を掲げる。その両手が朝焼けの光を取り込む様にして輝き、先ほどのように赤く燃え始めた。
 灼熱が鼻先に迫り、息苦しい。沸々と湧き上がる地獄の釜の蒸気が、魔女の手によってアヴェリーを包み込もうとしているかのようだ。
(まだだ――)
 アヴェリーは最後の望みを賭け、剣に手を伸ばした。

続く