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リルジャの足枷

LXI.神との契り(7)

 灼熱を抱いたハディアの爪がアヴェリーの顔をめがけて振り下ろされた。引き抜こうとした剣は間に合わない。生身の人間には耐えられない高熱によって表皮がはがされ、血肉が噴出することを想像する。
 だが、その瞬間は訪れなかった。生暖かい風がアヴェリーの耳を、ほんの少しだけ温めただけである。
 ハディアが手加減をしたのか。アヴェリーは見上げたが、魔女の顔は慈愛の表情など浮かべてはいない。ハディアの視線はアヴェリーよりも手前の、自身の指先で止まっていた。
 そのハディアの顔を至近距離から覗き込んだ時に、気がついたことがあった。
 ネラクの庭園を去ってから一日も経ていないのに、あの時よりもずいぶんとハディアの顔がこけている。肌は長く雨の降っていない大地のようにひび割れ、眼の下には隈さえ浮かんでいた。
 憮然としていたハディアがこちらの視線に気づき、顔をしかめた。再び、凍えるような殺気が魔女を取り囲む前に、アヴェリーは負傷した左足を引きずりつつ、魔法が支配する空間を脱した。
 ハディアは追撃を討たなかった。己の掌とアヴェリーを交互をに眺め、何かを呟いている。ふと、その視線が広場の外に飛んだ。つられて見たその先にはテラスがあった。エリニス王女の試練の際にシフェルが立っていたテラスだ。ハディアがそのテラスを睨みつけたまま固まっている。眼を凝らすと暁に散る城影の中に誰かが立っているのが見えた。
(アウベス殿……?)
 すぐに消えた人影を真夜中に知り合った人物だと識別することはできなかったが、アウベスを思い出したことで、はっとした。
 アウベスは、ディオニールが農家の娘を材料に最初にハディアを創ったことで、失敗したと言っていた。その失敗を踏まえて、選んだのがフィオメインの血筋だと。
 しかし、現実はどうだ。
 王女の試練の時、まさしくアヴェリーがテラスを見上げたのは、エリニスが反魔の帯でぐるぐるにまかれていたためだ。今では、エリニスが体だけの存在であり、その所作は宮廷の人間によって操られていたことを知っているが、民衆にとって華々しい王女という立場であったエリニスにそんな危険を冒させたのは、王家の威信があったからだ。王女の試練が形式的な儀式で済まされていれば、そんなことにはならなかったはずなのだ。
 王女の試練は少なくともエリニスの前の代まで、ただの儀式に過ぎなかった。ミアスが語ったように、フィオメイン王家の威厳はその力の衰えとともに失墜していたのだ。たとえルフアイナ暦の陰刻という迷信を加味しても、急激に王家の血筋が復権するとは思えない。
 ディオニールが農家の娘から学んだ失敗を元に選んだフィオメイン王家には、すでに人間と魔族の混血を生み出すほどの力がなかった。つまり、今、目の前に立つハディアには、神の言語たるリュテア語を使役し続ける力が十分ではないのだ。
 恐らくハディアはそれを分かっている。
 万全の状態ならば、セオン紅石を奪った時に蝿竜を遣わず、直々に奪いに来ればよかったはずだ。小手先の手段に頼ったのは、己の肉体の崩壊を予期していたからに違いない。広範囲を焼き尽くす熱波から一点を貫く光の矢に変えたのも、その理由があってのことだろう。
 とにかく、ハディアの表皮はひび割れている。鋼鉄の躰に傷をつけるとすれば、今しかない。
 アヴェリーは負傷した足に鞭を打って矢を引き、ハディアの体を狙って放った。
 期待を載せて矢はアヴェリーの狙いから少しずれたが、いとも簡単にハディアの右肩を貫いた。紅とも黒とも見える血がハディアの腕を伝って垂れる。舌打ちをしながらハディアが左手に込めた反撃の閃光は熱を抱く前に煙と化した。
「ちっ」
 ハディアの舌打ちは、そのまま呪文へとつながった。先ほどまで呪文の詠唱など必要としていなかった魔女が、魔法の原点に立ち返っている。
 アヴェリーはすかさず矢を射た。ハディアに壊された左足は広範囲の魔法を避ける能力を持っていない。詠唱が終る前にハディアの口を止めなければ、反撃を食らってしまう。
 ハディアは自身の右腕を犠牲にしてアヴェリーの矢を落としていく。互いに次の一撃が生死を分かつことを意識していた。
 緩やかにだが、確実にハディアの前に光が集っていく。救いを意味する光ではなく、雷の塊ともいうべきそれは、ハディアの足元を焦土にしながら大きな球体となっていった。
 稲妻の破片が細かな雷糸となってアヴェリーに伸び、金属に触れて噴き出した火花が布を焼く。ハディアの詠唱が終盤に差し掛かると、青い雷球は一気に収束し、白熱の玉に変化した。
 考えられるすべての軌道を使って魔女の詠唱を止めに掛かったが、エリニスの肉体には痛覚という者が存在しないのか、痛がる様子が無い。
「残念だが、お前の最期の時だ」
 ハディアが額に汗を浮かべて言う。最後の矢はすでにハディアの右手を射抜いたまま、ぶら下がっている。
「カレトヴィアの大地に穴を開けたハデスの雷を、身を持って味わうがいい」
 ハディアが白球に触れた瞬間、アヴェリーの頭上が白く光った。天から朝霧を跳ねのけて光の帯が降る。間一髪、直撃を避けたものの、アヴェリーの目の前に落ちたそれは、一気に地面を吹き飛ばし、徐々に広がり始めた。
 アヴェリーの眼の中に青白い光が拡がっていく。その光の中には、これまでの出来事が凝縮されていた。
(避けられない――)
 これまでか、と飽きらめかけた時、不思議なことが起こった。空から降り注ぐ光がアヴェリーから離れていくのである。風が退けたわけではない。光の帯に意思があるかのように、遠ざかっていくのだ。
 それは錯覚だった。良く見れば遠ざかっていったのはハデスの雷ではなく、アヴェリーの方だ。足元の地面が流砂のように動いているのだ。
(これは……)
 アヴェリーの足元にはいつも間にか奇怪な魔方陣が浮かび上がっている。見覚えのある魔法だ。二ヶ月前に正にこの場所で見た。エリニスに襲い掛かるイミールに対して、足止めの役割を果たしていた方陣である。
(砂海の方陣だ。しかし、誰が?)
 アヴェリーが流される方向の先に、その問いの答えがあった。
 フィルクスである。フィルクスが両手を地面について、こちらを見ていた。
「アヴェリー殿! 今です!」
 フィルクスの視線に誘われてハディアを見ると、隙だらけだった。立ってこそいるが、その様相は病魔に苦しむ老婆と同じだ。アヴェリーに向けたハデスの雷は、エリニスの体に残されていた魔性の血を全て使い果たすほどのものだったのだろう。ハディアの肌にはひびのような皺が縦横に走り、一度丸めて捨てられた絵画のようにくたびれている。
 だが、無防備なハディアを前にして、アヴェリーには矢が残されていない。今はできることはシフェルの形見ともいえる剣を投げることくらいだ。自由の効かない足でハディアに止めを刺す自信は無いが、これが最後の、逸してはならない好機である。
 アヴェリーは神に祈る思いで、剣を掴んだ。
『勇ましき君よ。私と契るか?』
 耳を疑るような声が、剣から聴こえた。
『私の名はリルジャ。神と人との調停を司る者。君が神の力を臨むのなら、代償とともに授けよう』
 不可思議な感覚に襲われて、とっさに手を離した。
(この剣は何だ?)
 声の主はリルジャと名乗った。アウベスやハディアが口にしていたその名は、旧約の創造主だと聞いた。そのリルジャが、代償とともに神の力を授けると云ったのだ。アヴェリーの腰に下がっているこの剣は、紛れもない旧約の証ということになる。何故シフェルが旧約をアヴェリーにさずけたのか。興奮のせいで頭が整理できないが、ここにあるということは、旧約を持ってハディアを止めることが、アヴェリーに委ねられたシフェルの願いなのだろう。
 戸惑う間に、ハディアは落ち着きを取り戻し始めている。
 時の旧約がミアスの時間を奪ったように、何の旧約だか分からないこの剣もアヴェリーの何かを奪うに違いない。だが、その代償が何であれ、今の選びうる選択肢は一つしかない。

「臨むところだ」
 アヴェリーはもう一度、柄を握った。
 剣が重力を失ったかのごとく軽くなっている。まるで鞘の中に入っているのがただの空気のようだ。湧き上がる汗とともに柄を握り締め、ゆっくりと引き抜くと、現れたのは一本の矢であった。明らかに、ネラクの庭園で抜いた時と形状が違った。
 旧約の力がアヴェリーの両腕を導く。今まで引いてきたあらゆる弦よりも軽く、それでいて猛々しく感じられる。うまく言い表せない感覚だが、アヴェリーの指は風を掴んでいた。
 アヴェリーの両手に納まった風の旧約に気づいたハディアが、全身から血を絞り出すようにして烈火を生む。ゆったりとした所作の中に魔女の焦燥が窺えた。
 それぞれが風と火を手放すのは同時だった。
 アヴェリーの手元で螺旋を巻いた大気が浮き上がる。次の瞬間には旋風が凄まじい速さで飛び、ハディアの放った炎を一瞬でかき消して、魔女の体の中央に穴を開けた。
「……おのれ」
 中心を失った体躯が崩れていくさなか、ハディアの頭だけが挿げ替えられた人形の首のように独立して動く。
「……旧約に頼ったか」
 死に瀕しているはずなのに、魔女の眼は威光を抱いたまま、アヴェリーを蔑んでいる。
「……いいだろう。ひと時の勝利に酔いしれるが良い」
 試練の日に透き通るように白く見えていたエリニスの肉体が黒く変色し、滴り落ちていく。闇色の液体は庭園の地面に触れるとすぐに黒い煙へと気化して、ハディアを包んだ。
 アヴェリーは風の旧約を放ったまま、その有様を見つめていた。
「アヴェリー! 頭だ! 頭を狙え!」
 庭園中に行き渡るような大きな声が、アヴェリーを呼んだ。
 見上げたテラスにアウベスが立っている。
「早く止めを!」
 いつの間にか、ハディアの周囲には烏が集まっていた。煙から突き出した左手がその中の一羽を掴んでいる。ハディアはその一羽を顔に近づけると、烏の目を凝視した。肉体を捨て、乗り移ろうとしているかのようだ。
 すぐさまアヴェリーは風を放ったが、遅かった。
 疾風がハディアに達する直前にアヴェリーの頭に声が響き、ハディアがリーニスの中にいた時と同じ老婆の声で『さらばだ』と言うのが聴こえた。
 風の矢は空を貫いて、黒い煙を払いのけただけだった。数羽の烏が風を嫌うようにして飛び去っていく。その中にハディアの、いやヘレの笑い声を聞いた。際限なく繰り返される奈落の底の神の笑い声は、登り始めた朝日を浴びる情景の中で、唯一つ残った余韻だった。

続く