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リルジャの足枷

LXIV.流浪の騎士(3)

 半年という歳月の後、リーニスはフィオメインに戻った。しかし、それは復権派が首を長くして待っていた王族の帰還というには程遠かった。リーニスが連れていたのはアヴェリーではなく、パレグレオ大公国の重臣とモルシアロイカの派遣兵だったからだ。
 当初の復権派貴族は協定を結びたいという両国の使者を拒否する姿勢を見せた。すなわち、大公国並びに宗教国との全面戦争に持ち込むという選択肢である。だが、監視院という一種の恐怖によって統率を保っていたフィオメインの旧権力者たちは、すでにその指導力を失っていた。王家の後ろ盾が無い監視院は抑止力を失ったただの暗躍集団に過ぎず、これまで冷や飯を食わされてきたフィオメイン騎士連盟や反復権派貴族から痛いしっぺ返しを食らうことになったのだった。
 結局、復権派の好戦的な姿勢は支持を得ることができず、大人しく両国の使者を迎えるしかなかった。そして、フィオメインの民衆が見守る中でリーニスの戴冠式を迎えたのであるが、リーニスはその場でフィオメインが新たな一歩を踏み出すことを誓うと、パレグレオ、ならびにモルシアロイカと条約を結び、フィオメインがその傘下に収まることを宣言してしまったのである。
 復権派が両国の策略に気付いた時にはすべてが手遅れであった。朽ちかけていた城はただの記念碑と化し、フィオメインは事実上、魔法国家からフィオメインの管理する魔法都市に鳴ることが決まった。
 もちろん、民衆にも戸惑いはあった。王国としての長い歴史を捨てるという事は、自分たちの文化が失われるのと同じぐらいの危機感を募らせるものだった。しかし、モルシアロイカの統治が自分たちにとって生活しやすいものだと知るとすぐに王女の判断を迎合する者が増え、暴動が起きる余地はなくなった。
 窮地に立ったのは、その暴動に一縷の望みをつないでいた復権派貴族である。フィオメイン王家の甘い汁を吸い続けていた神官や呪術師たちは、ディオニールの計画に気付きながら止めようとしなかったことを密かに問われ、大公国の裁定を待つことになった。アインガストのこうむった被害が彼らを冷遇することに繋がったのは言うまでもない。最終的に、王位復権派という派閥はフィオメインから追い出され、頭に『旧』という文字を背負うようになったのである。
「そいつらがアヴェリーを?」
「そうだ」
「下らん。単なる逆恨みじゃないか」
「もともと貴族なんて下らねえもんだろう? 他人を陥れることばかりを考えているくせに、自分が陥れられると復讐する事ばかりを考える。
 奴らにしてみれば、一時は恩赦を与えてやったアヴェリーの旦那に裏切られる形になったのが癪なんだろうよ。フィオメインがいち都市になってから半年以上がたった今でも、奴らは血眼にしてアヴェリーの旦那を探しているって噂だ」
 そんな奴ら、気にせずにさっさとエネハインに戻ってくればいい――。そう思ったハーサットであるが、すぐに思い直した。
 アヴェリーを狙う貴族たちはアヴェリーがエネハインの出身であることなど、とうに知っているだろう。ハーサットの知らないところで、監視の目を光らせる者がいてもおかしくはない。
「おや。察したな?」
 レドベグが嬉しそうに言った。
「どうやら旦那は、ここを訪れた旅人にアヴェリーの消息を聞きまわっているそうじゃねえか」
 事実である。アヴェリーの消息を気にかけているからだなのだが、やっていたことはそればかりではない。旅人がどこかでアヴェリーに会うことがあれば、連絡をよこすように伝えていた。それはアヴェリーの帰郷うんぬんではなく、所用があってのことだ。
「……悪いことは言わねえ。それは止めておいた方がいい。旦那がたにとって、良いことはないぜ?」
 レドベグの言葉通り、フィオメインの旧王位復権派がエネハインに目を光らせているというのなら、身に危険を招く行為だろう。ハーサット自身にとっては貴族など恐れる相手ではないと思ったが、それも相手の出方次第だ。特に妹夫婦に手を出されては、ぐうの音も出ない。その上、貴族の注意がエネハインに引きつけば引きつくほど、アヴェリーは近づきづらくなるだろう。
「――考えておく」
 ハーサットは立ち上がった。少しはいい話が訊けることを無意識に期待していたせいか、音にならないため息が漏れた。それでもわざわざ教えてくれた盗賊上がりの侵入者に、感謝を述べるべきなのかもしれない。ただ、それは口にしなかった。
「……忠告をするために、わざわざここまで来たのか?」
「まさか。旦那が俺のために造った牢屋がどんなもんか、見ておこうと思ったのさ」
「ほう。実際にぶち込まれた感想はどうだ?」
「悪くねえな。光が差し込むおかげで、閉塞感がない。のびやかな気分になれるいい部屋だ」
 レドベグがわざとらしく伸びをする。
「では、その隙間は埋める。罪人が後悔をしなければ、牢屋の意味がない」
 残念がるレドベグをしり目に、ハーサットは牢屋を後にした。
 外は、めずらしい真昼の濃霧だ。高く昇った昼の太陽が空中に漂う粒子の一つ一つを照らしているせいで、光の中にいるような錯覚を覚える。レドベグの言うような解放感というよりも、浄化されるような輝きだ。のびやかな気分になどならずに、レドベグの減らず口が少しでも減ってほしいものだと思ったところで、ハーサットは足を止め、大急ぎで引き返した。
 レドベグが伸びをしていたことを思い出したのだ。それはつまり、後ろ手に縛ったはずの縄をいつの間にか解いたということに他らない。わざとらしく見せたのも、ハーサットを挑発していたからだ。
 濃霧が帯を引くほどを全速力も虚しく、戻りついた時には手遅れだった。牢はすでにもぬけの殻になっている。いつしかレドベグが解けないと言った結び方を、今度は外してやったと言わんばかりに、縄が床に置かれていた。
「あの野郎……」
 その縄を見て、ハーサットはほくそ笑んだ。

 夜半から斜めに降り始めた雨は、人の掃けた城跡に入り込んで埃の匂いを沸き立てていた。ひび割れた屋上に受け止められなかった雨水が天井や壁を伝って地面に流れ込んで幾らかの塵芥を流しても、匂いは少しも薄まらない。かつての城の栄華と国の繁栄を知る身としては、風変わりしたその様が悲しくもあるが、何故か安心を覚える光景だった。
 フィオメインとの国交を謳う交流師団の一員としてエネハインを旅立ったのは、八年も昔の事になる。その八年前の出来事も昨日のことのように感じるかと思っていたが、いざ廃墟と化した城に入ってこの光景を前にすると何十年も昔の事のように感じられる。
 アヴェリーは時々立ち止まりながら城跡を歩いた。年月のせいもあるが、フィオメインとエネハインの城が混ざり、廃墟から元の姿を思い浮かべることができない場所が多い。それでも、自身が一番多く出入りをしたエネハイン騎士団の中央騎士堂だけは別だった。
 名だたる画家が描いても茶系の色しか使えない廃墟も、アヴェリーの視界には七色を使いこなしても描ききれないほどの情景が見える。金、銀、銅、鋼。エネハインの誇る鋳造技術を駆使しして彩られた五十体の騎士像と、一体一体に等しく巻かれた国旗。五十の勇士と百匹の子狼は色あせることなく記憶の真ん中に座り続けている。アヴェリーもハーサットもそれらに圧倒され、恐れを覚えながら最初の一歩を踏んだものだ。
 勿論、今となってはまともに立っている騎士像はない。倒壊の惨事を物語るように、そのほとんどが形すら残っていなかった。見る限り国旗だけは回収されたらしい。掲げる場所のない廃墟であっても、瓦礫の下敷きになって破れた国の誇りをそのままにしておくことなど誰にもできはしない。
 アヴェリーは騎士堂の一角に入り、柱に寄り掛かった。出立前の騎士たちが身支度をする倉庫である。八年前のフィオメイン遠征の直前、アヴェリーはちょうど今と同じようにこの柱に寄り掛かり、自制の効かなくなった鼓動を静めたものだ。
 今はその真逆である。
 一人旅を続けてきたアヴェリーの心は冷めていた。人に触れることはあっても、親しくなる前に別れを告げて街から街へと流れるうちに、アヴェリーは他人との関わりを控える様になった。風の旧約がそこまでアヴェリーに強いているわけではないが、その地域への愛着が生じる前に旅立たなければ、その先が辛くなるからだ。エネハインにフィオメイン、そしてアインガストといった知り合いのいる土地を訪れるのも控えていたところだ。
 その自戒を破って、アヴェリーの人生で最も長く過ごしたエネハインを訪れたのは、初心に戻るためだった。国を守る騎士として働くことを選んだこの場所が、アヴェリーの原点である。王を護ることが国を護ることにつながり、そこに住む民衆の生活を護ることになる。それが騎士の名誉だ。
 ここ数年を思い返してみると、アヴェリーはその名誉ある務めを果たし続けてきたように思える。親衛騎士隊としてエリニスを護衛し、出奔した先ではミアスとの約束を守るための戦いであった。
 今や守るべき者はおらず、約束もない。アウベスの言葉通りにレフェス全域を駆け巡って人々の生活を見守ることはあっても、あるいはハディアの影を追って魔族の先兵と戦うことはあっても、人々の暮らしからすれば、陽のあたらない世界の出来事に過ぎない。もはや戦っている相手は、孤独そのものだ。この戦いの先で、己は何をみつめることなるのかなど、分かっていない。アヴェリーは騎士としての役割を見失い、いつしか人の温かみを損なっていた。
 気がつけば、柱の元に座り込んでいる。自分自身でも一番情けないのは、立ち続けることのできないこの弱さである。
「こんなところで雨宿りか? 英雄殿」
 闇の奥で誰かが声を上げた。ゆっくりと浮き上がった輪郭がこちらへ向かってくる。アヴェリーは身を乗り出して、暗闇を凝視した。
「久しいな、アヴェリー」
「……ハーサットじゃないか! どうしてここに?」
 思わず口から出たが、可笑しな言葉だった。ここで何をしているのかを問われるのはむしろ自分の方だ。
「何の挨拶もなく、こんなところに忍びこむとは、少し水臭いんじゃないか?」
 ハーサットが口をとがらせて言った。
「……そうだな。すまなかった」
「冗談だ」
 ハーサットが意地悪く笑い、大きな声が城跡の空洞に響き渡る。
「さておき、話は聞いたよ。フィオメインの旧貴族とは、面倒な相手を敵に回したな」
「驚いたな。どこでそれを?」
 ハーサットが鼻頭を掻いた。
「縄の伝言とでも言おうか」
「縄?」
 ハーサットの答えは呑み込めたものではなかったが、何故か笑みがこぼれた。
「気にするな。それより、お前に渡す物がある」
「俺に?」
 アヴェリーは驚きを隠せなかった。エネハインを訪れることは誰にも知らせていない。しかし、ハーサットはまるでアヴェリーの行動を読んでいたかのようにあらわれた上に、渡す物があると言う。一年もの間、その機会を伺っていたという事なのだろうか。
「受け取ったのはひと月前だが、火急の用ではないらしい。お前と会うことがあれば渡してほしいと、そう言われた」
「誰から受け取った?」
「さあ。俺の知らない若造だった」
 ハーサットが首をすくめた。
 渡された物は書簡だった。手に取ると滑らかな銀の装飾が肌に伝わってくる。装丁の豪華さは書簡の出所を物語るようだ。
「中身は?」
「見ていない」
 開封すると上質な紙の匂いとともに香の匂いが漂った。雨の匂いなど相手にならない濃密な香りがアヴェリーの記憶を揺り起こすのに、それほど時間はかからなかった。フィオメイン王族の、とりわけエリニスの顔が思い浮かんだからである。しかし、記憶にあるエリニスの顔はハディアに直結している。
 アヴェリーは書簡をまとめている銀糸の帯を荒々しく剥ぎ取り、ランタンを近づけて書状を確認した。目に飛び込んできたのは、フィオメイン王家の紋章だった。そして、最後に書かれた署名を見た時、緊張は一瞬にして安堵に変わった。
 差出人は連名だった。一つは、フィオメイン女王としてのリーニスの署名。そしてもう一つはリーニス親衛騎士隊長としてのフィルクスのものであった。おそらく、ハーサットに手渡したのはフィルクスだろう。二人を繋いだ人物はアウベスか、コルメニクか。いずれにせよ、導いた者がいるということだ。
 アヴェリーは足の届かない湖に潜るかのように深呼吸をし、書状を開いた。
 リーニスが書いたと思われる優しい綴りは、フィオメインの現状を伝える内容から始まっていた。騎士連の活躍により旧王位復権派の貴族が解体したいう報せである。その後はリーニスの私的な言葉で埋め尽くされていた。簡単に言えば、「戻ってきてほしい。フィオメインにはアヴェリーが必要だ」と。
 再び署名を眼にした時には、両手が震えていた。言葉では言い表しがたい感情がそうさせている。思い出すのは、復権派貴族と口約束を交わした後にリーニスと再会した時のことだ。
 アヴェリーはコルメニクとモルシアロイカの使者に全てを委ね、人知れず去ろうとした――が、敵わなかった。ハディアを追いだした後も、リーニスの不思議な力は残っていたようで、あっさり見破られていたらしかった。しかし、それでもリーニスはアヴェリーを止めなかった。視線を交えるにとどめ、畑仕事に出かける農夫を送り出すかのように見送ったのである。
 リーニスも、名前だけ顔をのぞかせたフィルクスも、書面でこそアヴェリーの帰還を待ちわびているが、本当は分かっているのだろう。復権派貴族がどうこうではなく、アヴェリーは一つの覚悟の下に旅を続けていることを。二人はアヴェリーが今のように息詰まっているとは思っていないはずだ。勇ましく世界を駆け回っていると信じていることだろう。
 それはアウベスの言葉でもあった。レフェス全土を駆け巡り、歴史を学べ、と。アヴェリーを応援する者たちは皆、アヴェリーが世界を駆け巡る風となることを期待しているということだ。
(そうか――)
 アヴェリーは静かに書状を閉じて書簡に封をすると、ゆっくりと立ち上がった。
「そろそろ行くよ、ハーサット」
「――フィオメインに戻るのか?」
「……いや。どこにも戻るつもりはない」
「何故だ? お前は正しいことをして来たんだ。貴族なんて気にせず、堂々と戻ればいい」
「復権派貴族なんて、意識していないさ」
 フィオメインの復興に興味はあっても、自滅した貴族がどうなろうと今さら知ったことではない。
「礼を言うよ、ハーサット。お蔭でやるべきことが見えてきた」
「大したことじゃない」
 ハーサットは手を払った後で、急に真顔になった。悪い知らせを思わせるような目つきをしている。
「……なあ、アヴェリー。俺も一緒にいいか?」
 突拍子もない申し出に、アヴェリーは多少なりともたじろいだ。何の冗談かと思ったが、旧知の友の目は真剣そのものだ。
「何を言っているんだ? エネハインでやることがあるんじゃなかったのか?」
 ハーサットが答えもせずにおもむろに腕をまくった。最初は暗闇の中で何も見えなかったが、次の瞬間には腕全体がぼんやりと光っていた。
「グレナードから借り受けた光の旧約だ。すぐに返すつもりでいたんだが、な」
 良く見ると旧約の証である光の玉は、細かな破片となってハーサットの腕と同化している。簡単に取り除ける状態にはとても見えない。
「周りの者は知っているのか?」
 エネハインにおける光の旧約の証は、フェリオ公の遺品として扱われているはずだ。ハーサットの腕にめり込んでいることをそのままにしておくとは思えず、アヴェリーは尋ねたが、ハーサットは首を横に振った。
「いや、誰にも教えていない。こうなったのは、フィオメインでお前と別れた直後のことだ」
 光の旧約にひびを入れたのは他ならぬアヴェリーの矢である。その後も球形を保っていた光の旧約だったが、握っているうちに砕けて今の状態になったと、ハーサットは言った。
「街の奴らには、お前を待っている間にフィオメインの夜市で手に入れた虹色水晶を光の玉だと偽って渡してある。だからこのことを知っているのはお前だけだ」
 アヴェリーは事態の重さを考えた。光の旧約が何を代償にするかをはっきりと訊いたことはない。しかし、その効力としてディオニールがエリニス親衛騎士隊の命を犠牲にしたのは忘れられないことだ。そのことはハーサットも記憶に止めていた。
「正直、俺は怖いんだ。光は命そのものだ、とディオニールが言っていた。命なんて、人が扱うべきものではないと俺は思っている。なのに、その、扱ってはいけない力が俺の右手にある。最近やたらと身近な人間が病に倒れるのも、実はこいつのせいなんじゃないかと思っているんだ。こいつが元凶でエネハインがアンデッドの街になるようなことになったら、俺は死んでも死にきれない。
 俺が近くにいることで、お前にも危険が及ぶかもしれないことは分かっている。だが、アヴェリー。こんなことを頼めるのはお前しかいないんだ」
 ハーサットがすがりつくように懇願する。アヴェリーはふいにアウベスの言葉を思い出して苦笑した。
「リルジャの足枷、か……」
「何の話だ?」
「旧約をちぎった人間が払う代償のことだ。あるいは、人間そのものへの足枷。人は絶大すぎる旧約に頼ることになり、自身の成長を放棄する足枷になる、と、ある人が言っていた」
「……つまり、この力は忌み嫌われたものだ、ということか」
 ハーサットがため息をついた。
「いや、ハーサット。それは違うと思うよ。
 確かに、ハディアもヴェルグールも撃破したのは風と土の旧約の力だ。旧約の力さえあれば、魔族とも戦っていける。その甘えが、人が神の力に依存する原因を作り、成長を放棄してしまうというのはよく分かる。
 だが、今のこの平和な時は、旧約によってもたらされたとも考えていいんじゃないか?
 平和は人に自由を与え、自由は多様性をもたらす。多様性こそが成長の始まりだとロキアンたちは言っていた。つまり、人に成長する機会をもたらしているのも旧約なんだ」
「そうかもしれん。しかし、すまないが、それを聞いたところでとても前向きな気持ちにはなれないな。お前はそれで良いかもしれんが、その足枷をはめた俺からすれば、これはただの呪いだ」
 ハーサットが自棄になって柱にもたれた。アヴェリーには、それがほんの少し前の自分を見るようだった。
「お前だけじゃないよ。俺もだ、ハーサット」
 アヴェリーが手のひらでつむじ風を起こすと、ハーサットは目を見開いた。
「ハディアとの戦いで、風の旧約を契った。お蔭で俺は何処にもとどまることができない。もちろん、お前に比べればよい方だ。
 しかしな、ハーサット。旧約に捧げた代償は決して犠牲になったわけじゃないと思うんだ。人が神の力に頼らず、魔族と戦うためには準備が必要だ。言わば、俺たちの足枷はそのための足がかりなんじゃないかな」
「……」
「――ここへ戻ってきて、ようやくやるべきことが分かった気がするよ。ごく簡単なことだった。人々に平和を運び続けることだ。神の力を頼らずに人間が魔族と戦える未来を護ることが、俺らが得た力の正しい使い方なんだと思う」
 アヴェリーの言葉を聞きながらハーサットはしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「そうだな。少なくとも力に怯えて腐っているよりはずいぶんましだ」
 ハーサットが浮かべた苦笑いは、すぐに消えるものではないかもしれない。それは今のアヴェリーの嘲笑も同じだ。こんなことでいいのかという疑念は常にある。何も己ばかりを犠牲にしなくても損得を平等に分け合う道があるのではないかという思いに悩まされる日が、必ずめぐってくる。しかし、アヴェリーには、それもいつか無くなるだろうという確信があった。何故ならば、己の命を差し出してでも弱き者を護り通すのが騎士道の本文であるからだ。
「だが、アヴェリー。いいんだな? お前に呪いが……」
 アヴェリーがハーサットの言葉を制して右手を差し伸べた。ハーサットは旧約の埋まる自身の右手を気にしてためらったものの、待ち続けるアヴェリーに呼応して力強く手を握った。
「恩に着る」
「お互い様だ」
 アヴェリーは力強く握り返すと、ハーサットの手を引いて柱から引き剥がした。
 二人は何も語らないまま、示し合わせたようにしてエネハインの廃墟を上へ上へと登った。誰に対してでもなく、エネハインそのものに別れを告げるには、頂から街を見下ろすのが一番だと分かっていた。
 外では、雨雲の途切れた遠い空にわずかに欠けた月が浮かんでいた。街の灯りが全て消え失せても、雨水の跳ね返りが月光を浴びて煌めき、悪夢から復興したエネハインの家並みを暗闇に浮かびあげる。二人はその情景を目に焼き付け、祈るような気持ちとともにエネハインに別れを告げた。
「さて、これから何処に行く?」
「それは風任せだ」
「ははっ。まるで一本の矢だな」
 ハーサットが笑う。
 足枷を負う者として、また国を持たない騎士として、弱き者に手を差し伸べながら、いくつもの地域をまたぎ、国をまたぎ、レフェスに自由の風を届け続ける旅が始まる。役目が終わるその時まで、風に身を委ねて飛んでいく様は、弦から飛び出した矢そのものだ。
「そうかもしれん」
 アヴェリーも笑った。
「よし、行こう」
 いくらばかりかの未練を断ち切るように、二人は大きく地面を蹴って城跡を下りた。時に強まって地面に叩きつけられる雨音は、アヴェリーとハーサットに対する喝采のようですらある。その音も雨粒も、空気の匂いも、ひとつ残らず記憶に押し込んで二人は生まれ故郷を発った。
 二人のこの後を知る者は少ない。しかし、知る者たちは声をそろえて言う。彼らはレフェスを駆け巡る風と光の使者であった、と。

終わり

          あとがき